久留米を居城としていた毛利秀包(もうりひでかね)、そして隣の柳川を居城としていた立花宗茂(たちばなむねしげ)の二人はW義兄弟Wの契りを結ぶ仲でした。秀吉の九州平定の際、官兵衛は二人とともに島津軍と戦っており、いわば友軍の同志でした。
秀包は、中国地方を制した毛利元就(もうりもとなり)の九男であり、妻とともに熱心なキリシタンでした。同じくキリシタンだった官兵衛とも相通ずるところがあったことでしょう。
文禄・慶長の役でも秀包は官兵衛とともに戦い戦功を挙げますが、その後の関ヶ原の戦いでは黒田氏と敵対関係になります。
さらに合戦中、国もとの久留米城が黒田軍と鍋島軍に包囲される事態に。しかし秀包は事前にこう言い置いていたといいます。「黒田如水(くろだじょすい)(官兵衛)がわが城に来るなら、悪いようにはしないだろうから、一戦に及ばず城を明け渡し、妻子を如水に任せよ」と。結局、城は明け渡され、妻子は黒田方に無事保護されます。
合戦から戻った秀包は、毛利家の計らいで長州(山口県)に所領を与えられますが、病により32歳の若さで没しました。官兵衛は預かっていた秀包の妻子を長州に送り届け、その後秀包の娘を黒田家家老に嫁がせるなどの配慮もしています。
立花宗茂も、九州平定で島津軍を苦しめ、弱冠19歳ながら秀吉に「忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」と賞された人物でした。また文禄・慶長の役では、窮地に陥った加藤清正軍を少人数による奇襲で救出し、清正から「日本一の武将」と賞賛されています。
関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍に与(くみ)したため敗将となり、柳川に戻って官兵衛や鍋島直茂、加藤清正らを迎え撃つことになります。立花宗茂という人物は、家臣から慕われただけでなく、敵方からも「死なせるのは惜しい」と評された傑物でした。官兵衛も熱心に降伏をすすめ、開城へと導きました。宗茂は本来なら死罪となるところを領地没収だけで済み、家臣とともにしばらく浪々の時代を送ります。その後、彼の才を惜しんだ徳川二代将軍・秀忠に御傍衆(おそばしゅう)として迎え入れられ、さらには旧領地であった柳川藩に戻ることも許されました。当時としては異例の取り扱いであり、伊達政宗らとともに徳川家顧問の立場となって、76歳の長寿を全うしています。
武勇の士として名をはせた立花宗茂ですが、その一方で文人としても高名でした。とくに連歌に造詣が深く、家臣らとしばしば会を催した記録が残っています。
また、茶人としての側面もあり、晩年には徳川秀忠や家光とも茶会に同席しています。千利休の高弟だった細川忠興(ほそかわただおき)もその見識を高く評価し、宮中から茶事(ちゃじ)に招かれることもあったといいます。
こうした連歌や茶の湯に対する文人としての優れた感性は、官兵衛にも共通するもので、二人が同席したならば、きっと話も弾んだことでしょう。