福岡藩の領主となる前、
黒田氏が治めた豊前国6郡。
豊臣秀吉の九州平定への貢献で
この地を与えられた
黒田官兵衛・長政父子でしたが、
前領主・宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)らから激しい抵抗を受け、苦渋の決断を下します。
一方、久留米の毛利秀包(もうりひでかね)や柳川の立花宗茂(たちばなむねしげ)とは、戦いの中にも互いの立場を超えた情の交流がありました。
今回は、黒田氏をめぐる北部九州の強力なライバルたちを紹介します。
秀吉の九州平定において戦功を挙げた黒田官兵衛・長政らは、天正15(1587)年、豊前国6郡(現在の豊前市・行橋市・築上郡など)を与えられて九州に入ります。
新たに黒田氏の領地となった豊前国ですが、国内各地で一揆が起きるなど政情は不安定でした。そうした中、肥後国(熊本県)で大規模な一揆が起きます。その制圧に出陣した官兵衛の隙を突いて反乱を起こしたのが、黒田氏入国前の領主で、秀吉から伊予国(愛媛県)への国替えを命じられた宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)でした。鎮房は「先祖伝来の地をむざむざと渡せない」と、家臣とともにかつて居城があった城井谷(きいだに)を奪還します。
これは黒田氏の所領において最も激しい反乱となり、周囲の武将たちの一斉蜂起も誘発しかねない勢いでした。官兵衛の留守を預かる長政もこの黒田氏存亡の危機に、家臣に檄(げき)を飛ばします。「この一揆に負けるならば、父が粉骨を以て拝領した国を治められず、家の面目を失うものである。自分も家臣も、身の浮沈はただこの一戦にあるのだ」(『新訂黒田家譜』より訳)
長政は官兵衛の制止を振り切って城井谷を攻めますが、一度は大敗します。400年にわたってこの地を治めてきた宇都宮氏の地の利もあり、黒田軍は翻弄(ほんろう)されます。
天正16(1588)年、いったん和議はなったものの、なお鎮房の野心に疑念を持ち、秀吉からも「鎮房を滅ぼせ」と厳命された官兵衛父子は、苦渋の決断を下します。長政のもとを訪れた鎮房を酒宴の席で斬殺し、さらに軍勢を城井谷に派遣して鎮房の父や息子を死に至らしめました。
それまでの数々の城攻めにおいて、情理を尽くして説得し、開城させることが多かった官兵衛にとって、この難敵・宇都宮氏との戦いの結果は、生涯悔いの残る出来事だったかもしれません。
黒田氏に滅ぼされた宇都宮氏ですが、領民の心にその恩義は深く根付いていました。事件からおよそ80年たった寛文10(1670)年、戦国の世も終わり、平和に暮らしていた領民たちのもとに、驚くべき情報がもたらされます。かつての主君の孫が浪々の身で肥後国に生存しているとわかったのです。
領民たちはそろって「御家再興運動」を展開します。菩提寺(ぼだいじ)の住職が肥後に赴いて、その者を城井谷へ迎えました。江戸での任官を目指し、領民こぞって資金を集めた甲斐もあって、その息子の代には越前藩に召抱えられることになりました。宇都宮氏ゆかりの領地へは戻れなかったものの、領民たちは亡き殿への恩返しを果たせたと安堵したのではないでしょうか。