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グラフふくおか 2013冬号 winter 通巻573号平成25年12月20日発行(季刊) 発行 福岡県 県民情報広報課

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世界で活躍する福岡県出身者

チャレンジ精神でチャンスを生かせ!写真:河野賢二さん

河野賢二さん

ブラジル・ブラジリア在住

大牟田市に生まれ、6歳の時に家族でブラジルに移住した日系1世。三菱商事のブラジリア事務所設立などに携わる。歴代のブラジル大統領の信頼を得て、北海道洞爺湖サミットでは大統領に同行。現在は、ケンブリッジ・グループ代表を務め、コンサルタント業務を通じて日本とブラジルをつなぐ懸け橋として活動中

写真:県立三池高等学校での講演会の様子県立三池高等学校での講演会の様子

 「Boa (ボア)tarde(タルデ)!(こんにちは)。日本とブラジルは時差が12時間あるので非常に眠たいです」10月10日、高校生向けの講演会が行われ、大牟田市で生まれた河野さんが、昭和35年に両親と共にブラジルへ移住した様子をユーモアを交えて語ってくれました。
 「昭和34年に起きた三井三池争議により職を失った父は、県庁舎に貼ってあった『ブラジルへ行こう』というポスターを見て、家族を養うためにブラジル行きを決意します。当時、約1000人を乗せた移民船が月2回出航しており、私たちも40日ほどかけてブラジルへ向かいました」
 到着した河野さん家族は、サンパウロ南部の町レジストロのお茶農園で働きはじめます。
 「希望の地ブラジルに着いたら、そこは地獄でした。毒蛇や蚊、アブが多く、虫刺されなどで私はいつも両足を腫らしていました。ブラジルに来て2年後、弟が産まれた時の話です。父は少しでも多くのお茶を摘むため『母さんを頼むぞ』と仕事に出ました。8歳の私は母親の様子を見ながらお湯を沸かし、母の出産を手伝いました。ここで生きていくための全てを悟ったような気がしました」

 河野さんは、農園では、期待した収入が得られないと、ひよこの孵化(ふか)場で働き始めます。
 「ひよこのセールスマンとして働きますが、全く売れません。何度も辞めようと思いましたが、あきらめずに続けた2年後、銀行に勤める友人と分割払いでひよこを購入できる仕組みを考えると、飛ぶように売れ出し、トップセールスマンになりました」
 23歳で家を買えるほどになった河野さんですが、取引先の養鶏場が次々と倒産。そのあおりを受けて、職を失います。その後、日本企業の川崎製鉄で、通訳として働きはじめます。
 「働き初めて3年後、川崎製鉄がブラジルの製鉄会社に融資した550億円の回収業務をぜひ私に、と手を挙げました。誰も手を挙げない巨額の資金回収業務が果たして可能なのか心配でしたが、これは自分にしかできないものだと言い聞かせました。ブラジルの政府や中央銀行などと何度も何度も交渉を積み重ねて、何とか解決することができました。その後、有名になった私に日本のいろんな金融機関から同様の依頼があり、私のチャレンジ精神はますます燃えあがりました」
 河野さんは、チャレンジ精神をもって、いくつものチャンスを生かしてきました。
 「ブラジル移住という両親のチャレンジが、私にブラジルでの大きなチャンスを与えてくれて、勇気を持ってつかむことができました。皆さんも、志と勇気、クリエイティブな発想を持って、自らチャンスをつかみに行ってください」