武人として名を馳せた官兵衛ですが、その一方で「連歌」や「茶の湯」にも優れた感性を持つ文人としての側面もありました。とくに茶の湯では、豊臣秀吉や千利休から深い影響を受けています。
今でこそ茶道はW趣味Wの色が濃く、愛好者の多くは女性ですが、戦国の世では男の領域でした。
戦功の褒賞として小さな茶道具が与えられることもまれではなく、茶の湯は武士にとって一つのステータスであり、茶室とは武士たちが腹を割って話すことができる場でもあったのです。
官兵衛は当初、茶の湯にはさほど関心を示さず、むしろ「勇士の好むべきことでない」という考えでした。しかしあるとき、秀吉の一言で心を入れ替えたという逸話が『名将言行録』に載っています。秀吉いわく「武士が他の場所で密談をすれば人の耳目を集めるが、茶室ならば人に疑われることもない」。秀吉の一言で足を踏み入れた茶の湯の世界ですが、官兵衛はその奥深さに魅了されます。とくに千利休を尊敬して浅からぬ縁を結びました。秀吉の邸宅である聚楽第(じゅらくだい)で開かれた茶会で、官兵衛が秀吉や利休と同席したという記録が、『天王寺屋会記(てんのうじやかいき)』に残っています。また官兵衛の茶の湯観を表した『黒田如水茶湯定書(くろだじょすいちゃのゆさだめがき)』でも、「(自分の流儀は)我流にてはなく利休流にて候」と書いています。生涯を戦いに明け暮れた官兵衛にとって、静かな茶室で一服の茶をたて、しみじみと味わうひとときは、何よりの心の安らぎだったのかもしれません。
官兵衛の子・長政や、孫・忠之なども茶の湯には深く親しみましたが、三代藩主光之の重臣だった立花実山(たちばなじつざん)は、その後の茶道界にとっても重要な役割を果たします。利休の茶の湯の精神や心得を表した“茶道の聖典”とも呼ばれる「南方録(なんぽうろく)」を、後年実山が編さんし、今に伝わっています。
福岡には今もその教えに即した茶道「南坊流」が受け継がれ、多くの人に親しまれています。
立花実山は、茶道だけでなく書画詩文にも傑出した文人でした。利休が没して100年経った頃、あらためて利休の教えに回帰しようという動きが現れます。福岡藩の重職を務める傍ら、茶の湯の研さんに励んでいた実山も、そうした書物や伝聞として遺された茶の精神をもとに、「南方録」をまとめあげました。(「南方録」は、利休の秘事・口伝を弟子・南坊宗啓が聞き書きし、それを実山が入手して清書したという体裁になっていますが、近年の研究では実山自身がまとめた茶書という見解が多いようです)
実山はその後も茶の湯に精進しますが、三代光之と四代綱政との政変に巻き込まれて綱政の勘気を受け、飯塚の鯰田(なまずた)村(現・飯塚市)に幽閉され、その地で没しました。