狭い茶室内では、武士たちは刀を持たず丸腰で、ときに重要な会談なども行なわれた。「友泉亭」(福岡市)内の茶室「如水庵」にて。
水指、茶入れ、茶碗は、それぞれ高取焼
個人蔵
群雄割拠の戦国時代、
「稀代の軍師」として名を馳せた官兵衛は、
武勇に優れた家臣たちに恵まれました。
また官兵衛は、武人としての顔とともに、
連歌や茶の湯にも深い教養を備えた
文人の側面も持っていたのです。
播磨国(はりまのくに)(兵庫県)で小領主の一家臣にすぎなかった黒田官兵衛は、秀吉の軍師として数々の合戦で功を挙げ、ついには福岡藩五十二万石の礎を築きます。その陰には、「黒田二十四騎」などの精鋭に代表される、黒田家に仕えた家臣たちの献身的な働きがありました。中でも傑出した働きをしたのが、母里(ぼり)友信(通称太兵衛)と後藤基次(通称又兵衛)の二人です。
太兵衛は、13歳の頃から官兵衛に仕え、生涯を通じて黒田家に忠誠を尽くしました。槍の名手・剛力武者として知られ、合戦では50回以上も先陣に立ちながら、身体に槍傷・刀傷が一つもなかったというのも、その豪胆な威圧感で敵が避けたからではないかといわれています。関ケ原の戦いでは、大坂(現・大阪)の黒田家の屋敷から官兵衛・長政それぞれの夫人を、西軍監視の中で、見事に救出しました。
彼が「名槍『日本号』を呑(の)み取った」エピソードは、民謡「黒田節」として今も有名です。
又兵衛も、黒田家に仕えてからは太兵衛とともに縦横無尽の働きで官兵衛・長政を支えました。文禄の役では「亀甲車」という装甲車を製造して、敵の城壁を突き崩し、落城させました。また関ケ原の戦いでは、敵方石田三成の家臣で槍の名手・大橋掃部(おおはしかもん)を一騎打ちの末に討ち果たすなど、卓越した戦果を挙げています。
福岡藩が他藩との境界を固めた6つの山城のうち、太兵衛、又兵衛がともに城主を務めたのが益富城(現・嘉麻市)です。この城は、長崎街道と日田街道を結ぶ交通の要衝に位置していました。今でも草木に覆われた険しい山中に、当時の石垣などが見え隠れしています。
福岡を代表する民謡の一つ「黒田節」。「酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を呑み干すほどに呑むならば これぞ真(まこと)の黒田武士」と歌われたその主人公が、母里太兵衛です。
官兵衛が秀吉に仕えていたとき、太兵衛は主人の使者として、同じく秀吉の重臣 福島正則に招かれます。太兵衛は家中でも指折りの酒豪でしたが、正則の盃を最初固辞していました。正則はそれでもすすめ、「酒を飲み干せば、なんでも褒美をとらそう」と迫りました。
太兵衛はそれを受けて大盃を見事飲み干し、「秀吉公から拝領の名槍『日本号』を」と所望。正則も「武士に二言はない」と、日本号を太兵衛に与えたのです。黒田武士の豪快さを表すエピソードとして、語り継がれています。