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グラフふくおか 2013秋号 AUTUMN 通巻572号平成25年9月20日発行(季刊) 発行 福岡県 県民情報広報課

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知られざる福岡藩270年 第二回 黒田官兵衛と、その子孫たち「武」にも「文」にも秀でた、黒田武士

写真:「友泉亭」(福岡市)内の茶室「如水庵」にて。水指、茶入れ、茶碗は、それぞれ高取焼 個人蔵

狭い茶室内では、武士たちは刀を持たず丸腰で、ときに重要な会談なども行なわれた。「友泉亭」(福岡市)内の茶室「如水庵」にて。
水指、茶入れ、茶碗は、それぞれ高取焼
個人蔵

群雄割拠の戦国時代、
「稀代の軍師」として名を馳せた官兵衛は、
武勇に優れた家臣たちに恵まれました。
また官兵衛は、武人としての顔とともに、
連歌や茶の湯にも深い教養を備えた
文人の側面も持っていたのです。

写真:「黒田如水像」崇福寺蔵
「黒田如水像」崇福寺蔵
※黒田官兵衛は、後に如水と名乗りますが、本誌では官兵衛に統一しています。

主君を助け歴戦を戦い抜いた勇猛果敢な家臣たち

 播磨国(はりまのくに)(兵庫県)で小領主の一家臣にすぎなかった黒田官兵衛は、秀吉の軍師として数々の合戦で功を挙げ、ついには福岡藩五十二万石の礎を築きます。その陰には、「黒田二十四騎」などの精鋭に代表される、黒田家に仕えた家臣たちの献身的な働きがありました。中でも傑出した働きをしたのが、母里(ぼり)友信(通称太兵衛)と後藤基次(通称又兵衛)の二人です。

 太兵衛は、13歳の頃から官兵衛に仕え、生涯を通じて黒田家に忠誠を尽くしました。槍の名手・剛力武者として知られ、合戦では50回以上も先陣に立ちながら、身体に槍傷・刀傷が一つもなかったというのも、その豪胆な威圧感で敵が避けたからではないかといわれています。関ケ原の戦いでは、大坂(現・大阪)の黒田家の屋敷から官兵衛・長政それぞれの夫人を、西軍監視の中で、見事に救出しました。

 彼が「名槍『日本号』を呑(の)み取った」エピソードは、民謡「黒田節」として今も有名です。

 又兵衛も、黒田家に仕えてからは太兵衛とともに縦横無尽の働きで官兵衛・長政を支えました。文禄の役では「亀甲車」という装甲車を製造して、敵の城壁を突き崩し、落城させました。また関ケ原の戦いでは、敵方石田三成の家臣で槍の名手・大橋掃部(おおはしかもん)を一騎打ちの末に討ち果たすなど、卓越した戦果を挙げています。

 福岡藩が他藩との境界を固めた6つの山城のうち、太兵衛、又兵衛がともに城主を務めたのが益富城(現・嘉麻市)です。この城は、長崎街道と日田街道を結ぶ交通の要衝に位置していました。今でも草木に覆われた険しい山中に、当時の石垣などが見え隠れしています。

写真:「益富城跡」(嘉麻市教育委員会提供)写真:「鷹取城跡」(直方市教育委員会提供) 筑前国に入城した黒田氏は、国境を守るため6つの支城「六端(ろくは)城」を設けた。「益富城」(現・嘉麻市)、「鷹取城」(現・直方市)、「黒崎城」「若松城」(現・北九州市)、「松尾城」(現・東峰村)、「麻氐良(までら)城」(現・朝倉市)。現在の「益富城跡」(写真左 嘉麻市教育委員会提供)と「鷹取城跡」(右 直方市教育委員会提供)
写真:「黒田二十四騎図」(尾形探香筆) 福岡市博物館蔵 「黒田二十四騎図」(尾形探香筆)に描かれた、黒田の勇士たち。母里太兵衛(左列上から2人目)や後藤又兵衛(右列上から3人目)らの姿も見える。二十四騎は現在でも、武者行列の再現などで福岡県民に親しまれている 福岡市博物館蔵

「酒は呑め呑め 呑むならば…」黒田節に歌われた母里太兵衛

 福岡を代表する民謡の一つ「黒田節」。「酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を呑み干すほどに呑むならば これぞ真(まこと)の黒田武士」と歌われたその主人公が、母里太兵衛です。

 官兵衛が秀吉に仕えていたとき、太兵衛は主人の使者として、同じく秀吉の重臣 福島正則に招かれます。太兵衛は家中でも指折りの酒豪でしたが、正則の盃を最初固辞していました。正則はそれでもすすめ、「酒を飲み干せば、なんでも褒美をとらそう」と迫りました。

 太兵衛はそれを受けて大盃を見事飲み干し、「秀吉公から拝領の名槍『日本号』を」と所望。正則も「武士に二言はない」と、日本号を太兵衛に与えたのです。黒田武士の豪快さを表すエピソードとして、語り継がれています。

写真:「母里太兵衛の像」光雲神社(福岡市中央区)民謡「黒田節」にも歌われた、母里太兵衛の像。官兵衛・長政を祀(まつ)った、「光雲(てるも)神社」(福岡市中央区)境内にあるこの像のほか、JR博多駅そばにも立像がある
写真:天下三名槍「日本号」福岡市博物館蔵 “天下三名槍”にも数えられた「日本号」。穂(刃長)79.2p、全長321.5p、総重量2.8kg
福岡市博物館蔵
要史康撮影