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2016 秋号 AUTUMN 通巻584号 平成28年9月20日発行(季刊)
発行 / 福岡県 県民情報広報課

 
 
 

福岡海街紀行

第2回
写真=古谷千佳子

筑前海

巧みの海

筑前海は東西で呼び名が変わります。
東が響灘、西は玄界灘。
この2つの灘の境に位置し
筑前海をところ狭しと駆け巡る
宗像の漁師たち。
激しい潮流に鍛えられ、
磨かれた漁の技がここにあります。

素潜り漁の様子

素潜り漁は船を操る船頭との共同作業。家族や親戚などと組む例が多い

 
船上の松尾美智代さんと北川千里さんの写真

松尾美智代さん(写真左)と北川千里さん(写真中央)。海が大好きというふたりは海中の美しさに見とれながら自然と素潜り漁を身に付けた

筑前海近辺の地図上の位置
 

素潜り漁法を伝えた海女(あま)発祥の地、鐘崎

 

 「妹の子守は船の上だった」北川千里(きたがわ ちさと)さんと、「出産の前日も潜っていた」松尾美智代(まつお みちよ)さん。2人とも日本海沿岸の海女発祥の地といわれる宗像市鐘崎で代々続く海女の家系です。

 布製のアマ着を身に着け、船に身体を温める火鉢を積み込んで行っていた素潜り漁は、男性より皮下脂肪が厚く、何度も海に潜ることができる女性の仕事でしたが、ウエットスーツが普及した近年は男性の海士(あま)が主力となっています。江戸時代には300人ほどいたとされる鐘崎の海女も、今は北川さんと松尾さんの2人だけとなりました。

 かつて、鐘崎の海女たちは、対馬海流に乗り、遠くは能登半島まで出稼ぎに行き、日本海沿岸の各地に素潜りの技術を伝えました。やがてその地に定住し、鐘崎の「枝村(えだむら)」が作られます。今も海女が残る輪島(石川県)や大浦(山口県)などで、鐘崎の海女の技術とたくましさは受け継がれています。

※枝村…元の村から分出し、新しく作られた集落のこと

「筑前鐘崎海女の像」の写真

ウエットスーツ普及前の海女の姿。織幡(おりはた)神社にある「筑前鐘崎海女の像」

 

魚群を船団で囲い込む、団結力が要の「まき網漁」

 

 宗像漁業協同組合ではさまざまな漁業が営まれ、県内有数の水揚げを誇ります。中でもまき網は水揚げが最も多い漁法です。このまき網は、魚群を探す探索船、集魚灯で魚を集める灯船(ひぶね)、魚群を巻き捕る本船、鮮度を逃さず水揚げする運搬船からなり、乗組員と港で魚を選別する人員を合わせると30人を超える大所帯です。

 船団を率いる船頭の宗岡讓(むなおか ゆずる)さんは言います。「狙ったアジ・サバが大量に網に入っていたとき、その高揚感は例えようがない。ただ、大漁を願うのはいつも最後の最後です」。宗岡さんは出港の際、本船操舵室の窓から岬の神社に向かって祈りを捧げます。まずは乗組員の安全、次に漁の無事、そして最後に豊漁。豪放に見えて、重責を担う者としての繊細な気配りがうかがえます。宗像では漁師の顔もまた多彩です。

 
まき網漁の様子

まき網漁。灯船で魚を集め、網の底を絞って捕獲する。絞る様が巾着の形に似ているところから、通称「きんちゃく漁」

船頭の宗岡讓さんの写真

船頭の宗岡讓さん。現在22歳から70歳まで19人の漁師を率いる。後継ぎ(4代目)の息子、健一さんもそのひとりだ

 

■写真:古谷千佳子(ふるや ちかこ)
東京生まれ。海人(うみんちゅ)に惹かれ20年前に沖縄へ移住。潜水漁業など海の仕事についた後、写真家へ。2007年毎日放送『情熱大陸』で海人写真家として紹介される。2010年より全国に点在する海女の撮影を開始。海辺の暮らし、仕事の中に見える「さまざまな原点」を撮り続ける。