崇福寺の境内。かつての福岡城から移築された正門も残っている
如水や長政が礎を築いた福岡藩の治世を、一言で表すとすれば、「町人エネルギーの活用」と「勤倹尚武(きんけんしょうぶ)(業務に勤勉、節約を重んじ、武勇を尊ぶ)」だといえます。
如水・長政父子が入国した当時、博多の町は戦乱の世も落ち着いて、海外交易で富を得た富裕商人たちが活躍していました。黒田家は嶋井宗室(しまいそう しつ)や神屋宗湛(かみやそうたん)といった豪商たちの協力を得ながら、そのエネルギーを藩の運営に吸収しています。
過酷な税を取り立てて町人を圧迫するよりも、彼らの才覚を自由に発揮してエネルギッシュに商いをさせ、その利益に課税するという巧みな治世方針といえます。
財力のある町人たちには、課税と引き換えにかなりの自治権限を与え、日常的な貧窮者救済や町内の行政活動を任せていたと、「筑紫遺愛集(ちくしいあいしゅう)」などに書かれています。
また、当時長く途絶えていた「松囃子(まつばやし)(現在の博多どんたく)」の復興を命じたのも、町人活力を盛り立てようとする藩の意向でした。
もう一つの「勤倹尚武」ですが、如水自身は若い頃から非常な倹約家として知られており、たとえば不要になったものを家臣に売却したという逸話や、その生涯を通して「人に媚(こ)びず。富貴を望まず」と公言していたことなどから、その精神がうかがえます。黒田家にはこの他にも、「贅沢(ぜいたく)をするな。見栄を張るな。大きな屋敷を構えるな」などの家訓が遺され、子孫や家臣たちに幕末まで受け継がれました。江戸中・後期に財政困難に陥った際も、時の藩主や重臣から「藩の原点に立ち返れ」という気運が何度も起こったといわれています。
W築城の名手Wといわれた如水が、一説に福岡城に天守閣を築かなかったといわれ、藩主の庭園として造られた「友泉亭」が他藩に比べると質素であるのも、黒田家の家風によるものでしょう。花見スポットや各種競技場として福岡市民に親しまれる福岡城址。石垣や堀、多聞櫓(たもんやぐら)、下之橋御門などが今も昔の面影を残していますが、「肝心の天守閣は造られたのか?」という疑問が、長く論争の的になっていました。 もともと官兵衛は、秀吉の参謀として各地で連戦していた時代から“築城の名手”といわれていました。官兵衛が関わったとされる主な城は、姫路城、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(現在の唐津市鎮西町)、広島城、梁山倭城(韓国釜山)、中津城などがありました。(※縄張り担当も含める)
その官兵衛が満を持して築いた福岡城ですから、堂々たる天守閣を建造しても不思議ではありません。ただ、天守閣のことは博多に残る古文書にほとんど記されていないのです。「幕府に遠慮して造らなかった」、あるいは「すでに戦乱の世は終わり、天守閣が籠城に無用の時代になっていた」のでは…とされてきました。
しかし最近になって、「一度は造ったが、幕府に配慮して壊したのでは?」という説が出ています。細川家の資料(永青文庫)で、細川忠興が父の幽斉に宛てた書状の中に、「(黒田が)いずれ天守まで壊すであろうと、噂されている」という記載が発見されて、話題を呼んだのです。 果たして、福岡城に天守閣は存在したのか、否か。どちらであっても、想像力をかきたてる話ですね。
築城に際して、その土地の地形や城の規模などにより、堀や石垣、門、曲輪(くるわ)などの配置を決めること。これが名城となるための最大条件になる。
黒田家やその家臣たちの家々には、黒田氏がたどってきた数々の戦功やその経緯、そして江戸期の武士たちの日常を記した貴重な古文書が残されています。これらの資料を読み解く研究会もあり、天本孝久さんはそのお一人。「黒田家の歴史を記した『黒田家譜』が代表的な資料ですが、私たちが今読み解いているのは幕末に家老を務めた黒田播磨の日記。風雲急を告げるその時代の空気が伝わってきます」と話します。これからも、福岡の歴史の隠されたエピソードなどが、古文書解読から明らかになるかもしれません。
江戸時代、大名たちは競って、その権勢と美意識を凝縮した庭園を造りました。岡山藩の「岡山後楽園」、水戸藩の「小石川後楽園」や「偕楽園」、加賀藩の「兼六園」、高松藩の「栗林公園」などです。その多くは今も公園として、人々の憩いの場になっています。
黒田家六代藩主・継高(つぐだか)公も、江戸中期に別荘として庭園を造りました。これが今も福岡市城南区に残る「友泉亭」です。黒田家の質素倹約の家風から、他藩のような雄大なものではなく、広さも7〜8ヘクタール程度の規模だったといわれます。
庭園は明治になると、黒田家の手を離れて、小学校や村役場、駐在所、民間の別荘などにその姿を変えました。昭和53年に福岡市が取得し、56年に友泉亭公園として開園しました。