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グラフふくおか 2013夏号 SUMMER 通巻571号平成25年6月20日発行(季刊) 発行 福岡県 県民情報広報課

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知られざる福岡藩270年 第一回 黒田官兵衛と、その子孫たち「町人の力」を生かした政治哲学、それが黒田イズム

写真:黒田官兵衛 崇福寺蔵

黒田官兵衛(1546年〜1604年)
本名孝高(よしたか)。秀吉のもとで多くの城攻めの指揮を取り、優れた戦略から「稀代の智将」と呼ばれた。息子・長政ともども一時キリスト教に入信するが後に棄教する。隠居後は「如水(じょすい)」と名乗る。この肖像画は、黒田家の菩提寺である福岡の崇福寺に伝来するもの

来年からいよいよ、NHK大河ドラマで、福岡ゆかりの黒田官兵衛を主人公にした 「軍師官兵衛」が始まります。
江戸時代約270年にわたって、福岡の地を安泰に治め、 発展させた黒田家について、その歴史をいま一度振り返ってみましょう。

写真:黒田長政 福岡市博物館蔵
黒田長政(1568年〜1623年)
官兵衛の長男で、父とともに数々の戦功を挙げ、筑前福岡藩の初代藩主となった

滋賀から岡山、兵庫、大分そして黒田家は福岡へ

黒田官兵衛の祖先をたどると、琵琶湖の北東、近江国(滋賀県)伊香(いか)郡黒田村にそのルーツがあるといわれています。今も黒田地区自治会館のそばには「黒田氏旧縁之地」の碑が建っています。

 16世紀初頭に、足利将軍家の不興を買ってこの地を離れた黒田一族は、次に備前国(岡山県)邑久(おく)郡福岡に居住(この地名が、後にここ福岡の命名につながっています)。さらには播磨(はり ま)国(兵庫県)に移り、大名・小寺政職(こでらまさもと)に重臣として仕えました。官兵衛が生まれたのも、ここ播磨です。

 永禄4(1561)年、15歳で父とともに小寺政職に仕え、成人すると父から家老職を引き継ぎます。時流を見る目に秀でていた官兵衛は、織田信長の才能を高く買い、主君にも勧めてその勢力下に付きました。さらには羽柴(のちの豊臣)秀吉の参謀となり、鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻め、柴田勝家との賤ケ岳(しずがだけ)の戦い、四国攻め、九州攻めで巧みに作戦を成功させ、秀吉の軍師としてその才能が広く知られるようになります。

 秀吉が九州を平定すると、官兵衛もその戦功で豊前国(大分県)6郡を与えられ、中津城主となります。天正17(1589)年に、家督を息子・長政に譲って隠居し、以後は如水と名乗りますが、長政ともども朝鮮出兵に出陣。多くの戦功を挙げました。

写真:崇福寺に残る官兵衛の墓所
崇福寺に残る官兵衛の墓所。ここには長政ら歴代藩主の墓も並ぶ
イメージ:黒田家がたどったルート
黒田家がたどったルート
戦乱の世の常として、黒田家も主家を求めて各地を点々とした。関ヶ原合戦の後、筑前国に入国する
写真:(上)太刀 名物 「日光一文字」、(下)刀 名物 「圧切長谷部(へしきりはせべ)」 要史康撮影/福岡市博物館蔵
黒田官兵衛が愛用したといわれる
(上)太刀 名物 「日光一文字」、
(下)刀 名物 「圧切長谷部(へしきりはせべ)」

 関ヶ原の戦いでは、石田三成との不和があり、長政が徳川家康の養女を正室に迎えていたこともあって、黒田氏は家康側につきます。そしてその勝利に尽力したことが評価されて、家康から筑前国(福岡県)を与えられ、いよいよ入国します。今から413年前、慶長5(1600)年12月のことでした。

秀吉も脅威を抱いた、官兵衛の力量

 秀吉の有能な参謀として、数々の敵を攻略した官兵衛。秀吉は彼を高く買いながらも、一方でその力を恐れていたようです。幕末の館林(たてばやし)藩士・岡谷繁実(おかのやしげざね)が残した「名将言行録」には、こんなエピソードが載っています。 秀吉が家臣に「わしに代わって次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたとき、多くが徳川家康や前田利家を挙げたのに対して、秀吉は黒田官兵衛を挙げたとか。「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言ったそうです。それを聞いた官兵衛は秀吉の勘気を危惧し、直ちに剃髪し、如水と称して隠居。長政に家督を譲ったと記されています。

写真:「朱漆塗合子形兜と黒糸威五枚胴具足」 藤本健八撮影/福岡市博物館蔵
「朱漆塗合子形兜(しゅうるしぬりごうすなりかぶと)と黒糸威五枚胴具足(くろいとおどしごまいどうぐそく)
黒田家3代藩主・光之が、官兵衛をしのぶために作らせたと記録される。お椀を返したような兜(かぶと)の形が独特