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2019 夏号 SUMMER 通巻595号 令和元年6月20日発行(季刊)
発行 / 福岡県 県民情報広報課

 
 
 

「令和」のふるさと 福岡県

「令和」の命名は、今から1300年ほど前、
大宰府(※)で開かれた「梅花(ばいか)の宴(えん)」に由来します。
私たちにとって身近な町が新元号ゆかりの地となりました。
「令和」にまつわる大宰府と福岡の歴史、当時の風景に思いをはせてみましょう。

※古代の役所を指す場合「大宰府」と表記します

大宰府政庁側から太宰府の町を望む写真

大宰府政庁側から太宰府の町を望む。1300年も前、ここに“西の都”となる大都市が造られた

 

「令和」の由来

 平成31年4月1日、新たな元号が「令和」と発表されました。典拠は、奈良時代に完成した日本最古の歌集「万葉集」。収められた「梅花の歌 三十二首 序文」の文言を引用したものです。

時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)、
気淑(きうるわし)く風和らぐ。
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)に披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香(かおり)に薫(かお)る。

*現代訳例
時は初春のよい月(「令」は、艶があるように美しいの意)、天気もうららかに風は穏やかだ。梅は鏡の前で女性がおしろいで装うように花開き、蘭草(らんそう)は身を飾る衣にまとう香(こう)のように薫っている。

 この序文は万葉集の編者とされる大伴家持(おおともの やかもち)の父、大伴旅人(おおともの たびと)が記したとされています。三十二首の和歌を詠み交わした「梅花の宴」は、旅人が大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)を任されていた730年に、自身の邸宅に大宰府や九州諸国の官人たちを招いて宴を開いたものです。それは中国の書家・王羲之(おう ぎし)が催した「曲水(きょくすい)の宴」と、その様子を記した序文「蘭亭序(らんていじょ)」に倣ったものと考えられます。そのことからも旅人や官人たちは中国に憧れ、その文化に精通していたと理解できます。

大宰府と大伴旅人

 今から1350年前の飛鳥時代、現在の太宰府市には九州全域をまとめる地方役所「大宰府」が置かれました。663年、白村江(はくそんこう)の戦いで唐と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた日本は、その侵攻から国家の最前線である「大宰府」を守るために巨大な防塁となる水城を築き、大野城と基肄城(きいじょう)も築城しました。すでに「大宰府」が律令国家を目指す日本の顔として大きな役割を担っていたことがうかがえます。現在も大宰府政庁跡へ行けば、その巨大さが感じられますが、奈良時代、その前面には平城京に次ぐ規模の大都市が碁盤の目のように広がり、国内外から多くの人や物が行き交っていたことが分かっています。

 奈良時代、大将軍となって南九州を平定した旅人は、727年ごろ、63歳の時に大宰帥として家族と一緒に赴任します。大宰帥は貴族の中でも上から五本の指に入る高官であり、九州を治めるだけでなく、海外からの文化を受け入れる最前線の任に就いていました。翌年、最愛の妻を病気で亡くし、また都での権力争いに心を痛める一方、筑前守(ちくぜんのかみ)として「大宰府」に赴任していた山上憶良(やまのうえのおくら)らと交流。政治だけではなく和歌を嗜(たしな)む気風が生まれたようです。

 旅人が「梅花の宴」を開いた時、旅人の邸宅があったとされるのが、現在の坂本八幡神社や月山の東(月山東地区官衙(かんが)跡)といわれ、当時は希少だった梅の美しさを味わいながら和歌が詠まれました。その後、大納言として都へ帰った旅人ですが、731年、大宰府の日々を懐かしみながら亡くなってしまいます。

「梅花の宴」の舞台ともいわれる坂本八幡神社の写真

「梅花の宴」の舞台ともいわれる坂本八幡神社は新名所に

水城跡の写真

今も残る水城跡は道路や線路を横切り木立に覆われている

大宰府政庁跡の礎石の写真

大宰府政庁跡には建物の礎石が残されている

 
大宰府政庁跡から大野城(四王寺山)の山々を望む写真

大宰府政庁跡から昔と変わらぬ大野城(四王寺山)の山々を望む

 

大伴家持と「万葉集」

 旅人の息子である大伴家持は、叔母である坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の指導もあって、奈良時代を代表する歌人になりました。日本最古の歌集である「万葉集」は、家持がまとめたものといわれています。全20巻・4500首の歌が収められており、作者も天皇や貴族をはじめ防人(さきもり)や農民まで幅広いのが特徴です。そこには都や故郷への思い、中国文化への憧れ、さらに大宰府や九州の風景など、人々の赤裸々な思いが素直に歌われ、旅人や憶良の和歌も多く収められています。父を慕う家持の特別な思いが編纂されたのかもしれません。

「大宰府」施設も散策を

 現在、大宰府政庁跡の横には「大宰府展示館」があり、博多人形師・山村延燁(やまむら のぶあき)さんが制作した博多人形による「梅花の宴」の展示をしています。「梅花の宴」が開かれ、旅人の邸宅の候補地の一つである月山東地区官衙跡もすぐ横。周辺には旅人をはじめ、憶良や柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)らが残した和歌を伝える万葉歌碑も点在します。1300年前の歌人たちも眺めていたであろう四王寺山や水城跡、町を流れる御笠川など、変わらぬ景色を感じながら、はるか古代の都を散策してください。

 そして、「令和」のふるさと福岡県で、新しい時代の息吹を感じてください。

問い合わせ 九州歴史資料館

所在地 小郡市三沢5208-3
営業時間 9時30分から16時30分
休館日 月曜日
料金 一般200円、高大生150円/
満65歳以上・中学生以下無料
※土曜日は高校生も無料
電話0942-75-9575
ファクス0942-75-7834

九州歴史資料館外観の写真
 
大宰府周辺マップ
大宰府展示館に展示される「梅花の宴」の写真

大宰府展示館に展示される「梅花の宴」(博多人形師・山村延燁さん制作、公益財団法人古都大宰府保存協会所蔵)

紀男人(きのおひと)の万葉歌碑の写真

「梅花の宴」で歌い始めを務めた紀男人(きのおひと)の万葉歌碑

大伴旅人が詠んだ万葉歌碑の写真

大伴旅人が詠んだ万葉歌碑が「歴史の散歩道」沿いに