国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると、田川の平野が広がっていた。近年開通した筑豊烏尾(からすお)トンネル。筑豊という地名は、かつてこの地にあった筑前の国と豊前の国の名に由来する。
トンネルを出てまず目についたのは、香春岳(かわらだけ)の異様な姿だった。かつては一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳からなる連山だったが、石灰石を採掘したために一ノ岳は山の中腹からスパリと切られ、その前方には高々と積み上げられたボタ山が木々に覆われてそびえている。この景色こそが、石炭と石灰という大地の宝によって栄えた筑豊地方を象徴しているかのようである。
かつての伊田(いた)坑跡に作られた田川市石炭・歴史博物館が、その頃の様子を今に伝えている。三井鉱山が明治33年にこの地で石炭の採掘を開始したのは、翌年の八幡製鐵所の創業に備えてのことだ。
日本の近代化を図るためには、鉄の生産が欠かせない。その鉄を溶かすための石炭の供給地として筑豊地方が選ばれ、当時、国内の産出量の半分近くを担っていた。まさに近代日本の母なる地なのである。
その反面、劣悪な労働条件、事故、環境汚染などの影の部分も多かった。炭鉱労働者として生涯の大半を過ごした山本作兵衛が、その実態を想念画という手法で克明に記録している。地の底からの叫びにも似たあまたの絵は、伝えたいという切実さゆえに見る者の心に突き刺さるのである。
心を打たれたのは、直方市石炭記念館に残されているレスキュー隊の訓練用の坑道だった。事故が起こるたびに数百人の命が失われる惨状を目の当たりにした炭鉱関係者たちは、一人でも多くの命を救おうと、明治45年にこの坑道を作ってレスキュー隊の養成を始めた。
現場さながらに作った坑道で一万人近くが訓練を受け、事故の際には救援活動に従事して大きな成果を上げた。そのことが日本人の善良さと底力を現わしているようで、頭が下がる思いだった。
久々に筑豊地方を訪ねて、この景色はどこかに似ていると思った。まわりをなだらかな山に囲まれた地形といい、何本もの川が流れる豊かな平野といい、奈良盆地に瓜二つである。あるいは大和朝廷が成立するはるか以前に、この地には豊かな国がきずかれていたのかもしれない。
新羅から渡来した人々が祭った香春神社、神功皇后の伝説に由来する風治(ふうじ)八幡宮、日本三大修験山と呼ばれる英彦山。古代のロマンを伝える史跡も数多く残された、香り豊かな土地なのである。
あべ りゅうたろう 昭和30年、福岡県八女市生まれ。平成2年、『血の日本史』でデビュー。平成17年、『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。平成25年、『等伯』で第148回直木賞を受賞。他の著作に、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』などがある。