大型船の入港時などに水位調整を行う「スルースゲート」。閘門(こうもん)同様、三池港開港当時から現在まで稼働し続ける設備の一つ
九州新幹線の新大牟田駅をおりると、フロックコートを着た團琢磨(だんたくま)の巨大な石像が迎えてくれる。三池炭鉱を開発した業績に感謝し、地元の方々が建てたものだ。
團は明治維新の10年前、1858年に福岡藩士の四男として生まれた。明治4年にアメリカに留学。7年後にマサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業した。
帰国後、工部省鉱山局に入り、三池炭鉱の開発を手がけるようになった。やがて炭鉱は三井組に払い下げられたが、團はそのまま会社に入って鉱山開発をつづけた。
三池炭鉱は炭層の厚さが5メートルにもおよび、石炭の含有率が90パーセント以上と、きわめて優良だが、二つの大きな問題をかかえていた。ひとつは坑道に大量の地下水が流れ込んでくること。もうひとつは有明海の干潟(ひがた)に面しているので、石炭積み出しの港が確保できなかったことだ。
團はこれらの問題を解決するために欧米の炭鉱を視察し、イギリス製のデビーポンプを導入して坑道内の排水にあたることにした。また、パナマ運河型の閘門(こうもん)をきずいて大型船の入港を可能にし、石炭の積み出しばかりでなく、大牟田の発展を支える拠点になるよう、築港を開始した。
團は港を作ると決めた時、「百年先の発展のためにも、築港が必要だ」と言って関係者を説得したという。その言葉通り、港は百年以上たった今も機能を保ち、地域の経済、産業、文化を支えつづけている。
大牟田市石炭産業科学館をたずねると、三池炭鉱で最先端の技術が導入され、改良を加えつづけられたことが分るし、宮原坑(みやのはらこう)の巨大な竪坑櫓(たてこうやぐら)や巻揚機(まきあげき)を見れば、大量の産炭を可能にした規模の大きさがうかがえる。
経済発展の恩恵は、雇用の確保やインフラの整備、娯楽施設の充実など、市民生活にも広くおよんだ。今も語り草になっている昭和40年夏、三池工業高校野球部の甲子園初出場初優勝の快挙も、大牟田全体の活力を示すひとつの象徴だったのである。
あべ りゅうたろう 昭和30年、福岡県八女市生まれ。平成2年、『血の日本史』でデビュー。平成17年、『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。平成25年、『等伯』で第148回直木賞を受賞。他の著作に、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』などがある。