江戸時代、全国の諸藩にとって財政の基盤はなんといっても「米の石高」でした。 官兵衛の子、福岡藩の初代当主長政も、福岡藩の石高を上げるため、糸島地域の大規模な干拓や、遠賀川の整備・運河建設など、さまざまな米作振興に取り組みます。
新田開発を目的とした糸島の干拓事業は、長政が代官菅和泉守(かんいずみのかみ)に命じて始まりました。雷山川の下流を「泉川」と呼ぶのは、この菅和泉守の名からきています。干拓事業はその後、元禄年間や嘉永(かえい)年間にも行われ、“糸島富士”と呼ばれる可也(かや)山周辺には整然と区画された水田が現在も広がっています。
遠賀川から洞海湾(どうかいわん)へ直結する堀川運河の建設は、たびたび氾濫する遠賀川の河川改修と、筑豊からの物資輸送、流域の田畑への利水などを目的として、長政や後の藩主たちが長年かけて取り組んだものです。長さ12.1qに及ぶこの運河の完成は、新田の開拓にもつながり、藩の石高は約2万石増加したと言われています。
現在の福岡県でも農業は盛んで、県産米の「元気つくし」のほか、「あまおう」、「博多万能ねぎ」など全国的にも有名な農産物が数多く作られています。
また、堀川運河は、筑豊の炭田で産出された石炭を運ぶ上でも活用され、明治以降の福岡県の発展、ひいては日本の近代化を支えて、わが国の重工業化の道を切り開きました。
城下町は、まず城を築き、その城のまわりに人々が集うことで発展していくのが一般的です。しかし、筑前国に入国した官兵衛は、すでに九州一の商業都市であった博多の町を生かすことが藩の繁栄につながると考え、博多の町の近くに福岡城を築くことにしました。
そして、課税と引き換えに多くの自治権限を町人たちに与えるなど、彼らのパワーや才覚を自由に発揮させるための環境づくりを進め、藩の活力にしたと伝えられています。
官兵衛が没して410年。その子孫たちが治めた福岡藩は、やがて、周辺の各藩領地も含めて福岡県となり、今日では全国でも屈指の“活気ある県”として発展しています。その土台には、黒田氏が積極的に進めた産業振興政策が一役買っているのではないでしょうか。こうした黒田氏の足跡を今も各所に残す福岡県。あらためて、その遺功に目を注ぎたいものです。
第一線を退いて、福岡藩の行く末を長政に託した官兵衛は、太宰府近くに庵(いおり)を構えます。当時の太宰府は戦火により荒廃していましたが、官兵衛はこれを惜しみ、天満宮の社殿の復興に尽力しました。
その後、病を得て京都で療養しますが、死期を悟った官兵衛は、自分の遺骸(いがい)は福岡に運んで教会で弔(とむら)うよう言い遺し、慶長9(1604)年3月20日(新暦では4月19日)、ロザリオ(十字架)を胸に59年の生涯を閉じました。長政は遺言を守り、福岡でキリスト教式の葬儀を行っています(後に仏式葬儀も実施)。
官兵衛の辞世の歌は
「おもひおく 言の葉なくて つゐに行道は迷はじ なるにまかせて」
(この世に思い残すことはもう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけである)
さまざまな困難に直面しながらも己の志を貫いた人生でした。