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来て!見て!遊ぼう!ふくおかの県営都市公園

更新日:2020年4月2日更新 印刷

福岡県が設置、管理する都市公園は9つあります。このページでは、これらの都市公園についてご紹介します。

県営都市公園の配置

県営都市公園配置図

県営都市公園の基本情報

東公園 所在地 福岡市博多区東公園、東区馬出1丁目
開園年月 明治9年
供用面積 7.0ha(敷地のほぼ全てについて国から無償貸付を受けています。)
公園種別 総合公園
有料施設
無料施設 芝生広場、児童コーナー ※当公園に来園者用駐車場はありません
西公園 所在地 福岡市中央区西公園
開園年月 明治14年
供用面積 17.0ha(うち10.7haについて国から無償貸付を受けています。)
公園種別 風致公園
有料施設 舞鶴館(集会所)
無料施設 展望広場、展望台、児童コーナー、さくら園、ツツジ谷、もみじ谷、駐車場
飲食店 鵜来見亭、荒津亭
大濠公園 所在地 福岡市中央区大濠公園
開園年月 昭和4年
供用面積 39.8ha(うち22.6haについて国から無償貸付を受けています。)
公園種別 総合公園
有料施設 日本庭園、日本庭園内茶室、茶会館
大濠公園能楽堂(県文化振興課所管施設)
福岡市美術館(福岡市所管施設)
貸ボート、駐車場
無料施設 児童遊園(くじら公園、どんぐり公園)、周回園路、中の島(柳島、松島、菖蒲島)、橋(観月橋、松月橋、茶村橋、さつき橋、舞鶴橋)、浮見堂
飲食店 ボートハウス(フランス料理「レストラン花の木」、カフェレストラン「ロイヤルガーデンカフェ」、フローズンヨーグルト店「ピンクベリー」)、スターバックスコーヒー、大濠テラス八女茶と日本庭園と。
売店 宝亭売店、観月橋売店、ボートハウスパークショップ
名島運動公園 所在地 福岡市東区名島2丁目
開園年月 昭和57年7月
供用面積 5.2ha
公園種別 近隣公園
有料施設 野球場(天然芝・土、照明)
テニスコート(砂入り人工芝12面、1~4番コートのみ照明あり、観覧席1~4番コート1,700席、5~8番コート330席、9~12番コート270席)
管理棟内会議室・シャワー室
無料施設 自由広場、遊具広場、子供グラウンド、駐車場
天神中央公園 所在地 福岡市中央区天神1丁目、西中洲
開園年月 昭和63年5月
供用面積 3.1ha(うち0.1haについて国から無償貸付を受けています。)
公園種別 近隣公園
有料施設

旧福岡県公会堂貴賓館(県文化財保護課所管施設)、自転車駐車場(福岡市所管施設)

無料施設 芝生広場、さくら広場、噴水広場、福博であい橋 ※当公園に来園者用駐車場はありません
飲食店 貴賓館カフェ(入館者用)、HARENO GARDEN EAST&WEST
売店 オアシスショップ
関連施設 当公園の地下に公共有料駐車場(福岡市所管施設)があります。
春日公園 所在地 春日市原町3丁目
開園年月 昭和56年5月
供用面積 30.0ha(うち19.9haについて国から無償貸付を受けています。)
公園種別 総合公園
有料施設 野球場(天然芝・土、照明、スコアボード、放送設備、会議室、観覧席(内野スタンド8,179席、外野芝生席約2,000人))
球技場(人工芝、照明、スコアボード、放送設備、シャワー室、会議室、観覧席(メインスタンド約3,500席、芝生席約6,500人))
庭球場(砂入り人工芝16面、全コート照明あり、観覧席(1~3番コート2,400席))
テニスコートハウス内ロッカー・シャワー、パークステーション内ロッカー
無料施設 芝生広場、自然風庭園、児童コーナー、ゲートボール場、パークステーション内キッズルーム、駐車場
売店 パークステーション内売店
中央公園 所在地 北九州市小倉北区、八幡東区、戸畑区
開園年月 昭和27年
供用面積 89.9ha(うち県管理40.6ha)
公園種別 総合公園
有料施設

野球場(天然芝・土、観覧席約200席)
北九州市立総合体育館(北九州市所管施設)
北九州市交通公園(北九州市所管施設)
北九州パレス(県労働政策課所管施設)

到津の森公園北ゲート駐車場(北九州市管理施設)

無料施設 交流広場、児童広場、駐車場
飲食店 公園管理棟内喫茶店「Cafeこんぴら」、北九州パレス内うどん店「とばた麺之助」
筑豊緑地 所在地 飯塚市仁保、鹿毛馬
開園年月 昭和29年11月
供用面積 50.8ha
公園種別 広域公園
有料施設

野球場(人工芝、照明、スコアボード、放送設備、会議室、観覧席(内野スタンド2,940席+車椅子スペース16台分))
多目的広場(人工芝、照明、観覧席約620席)
庭球場(砂入り人工芝8面、ハードコート7面(国際規格準拠、2面屋根付)、9面照明あり、観覧席(1~3番コート484席、11~12番コート174席+車椅子スペース37台分))
プール棟(屋内温水25mプール、屋外公認50mプール(観覧席1,342席+車椅子スペース8台)、トレーニング室、会議室)

管理棟内会議室・シャワー室、野外音楽堂の控室

無料施設 芝生広場、トリム園、水辺の広場、ひょうたん池、野外ステージ、多目的グラウンド、駐車場
筑後広域公園 所在地 筑後市大字津島、みやま市瀬高町本郷
開園年月 平成17年7月
供用面積 87.1ha
公園種別 広域公園
有料施設

多目的運動場(天然芝・土、軟式野球1面又はサッカー1面、照明あり)
多目的広場(土、軟式野球2面又はサッカー4面)
庭球場(砂入り人工芝6面、全コート照明あり)
体育館(バスケットボール2面又はバレーボール4面、観覧席776席、会議室)
プール棟(屋内温水25mプール、屋外公認50mプール(観覧席1,381席+車椅子スペース15台分)、トレーニング室、フィットネスルーム、会議室)
球技場(人工芝 サッカー1面、照明あり)
スケートボード場
ドッグラン
筑後船小屋公園の宿(宿泊施設、展望風呂、会議室)
九州芸文館(文化振興課所管施設)
恋ぼたる温泉館(筑後市所管施設)

無料施設 芝生広場、野外ステージ、ゲートボール場、駐車場、花畑
飲食店 公園の宿内レストラン「ほたる」
売店 恋ぼたる物産館(筑後市所管施設)

以下、各公園等のホームページへのリンクは、新しいウィンドウで開きます。

東公園 (指定管理者:東洋緑地建設株式会社)

沿革と概要

この地はかつて、九州の三大松原の一つと言われた景勝千代の松原の一部でした。千代の松原の創設時期は不明ですが、昔から筥崎宮の神木として厳に伐採を取り締まり、慶長3年(1598年)には石田三成が禁制を発したとされています。

石田三成が発した禁制

箱崎松原の事かれ木えたをも、とるへからず候、若たち木并えたをもきりしものあらば、見つけききつけ次第、なじまへつけきたるへし、可加成敗候つげきたるものには、ほうびすへし又見かくし、ききかくし候はは其身の事は不及申かくし候もののしゅうるい、ともに可成敗もの也

慶長3年7月5日 治部 少輔

明治時代に入り、日本における近代的公園制度のはじまりとなる「明治6年太政官布達16号」が政府から発せられ、府県に対し公園地選定に関する手続きが命じられました。これを受け福岡県はこの地を公園地として選定、大蔵省に上申し、明治9年に「東松原公園」となりました。県は、公園管理事務を司らせるため、地元有力者から数名の世話係を任命し、地域では、世話係を中心に皆松会という保勝会を組織して管理しました。

明治6年1月15日 太政官布達第16号

明示6年法令全書

(明治6年法令全書。国立国会図書館ウェブサイトから転載。)

三府ヲ始人民輻輳ノ地ニシテ古来ノ勝区名人ノ旧跡等是迄群衆遊観ノ場所(東京ニ於テハ金龍山浅草寺東叡山寛永寺境内ノ類京都ニ於テハ八坂社清水ノ境内嵐山ノ類総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク萬人偕楽ノ地トシ公園ト可被相定ニ付府県ニ於テ右地所ヲ択ビ其景況巨細取調図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出事

(古来からの風景の良い場所等、人々が集まり楽しむような公有地を公園とするから、府県はそのような場所を選び大蔵省に申し出よ、といった内容です。)

公園の名称が「東公園」になった時期ははっきりしませんが、明治24年に内務省が福岡市に対して東松原公園と荒津山公園の引き受けを打診したときの市議会議案では既に「東松原公園」「荒津山公園」の名称と共に「東公園」「西公園」との表現もなされています。なおこの議案は「市の事務を増加せしめる」との理由により否決され、東公園は博多財産区、西公園は福岡財産区で引き受けることになりました。

その後、明治32年に県の直営となり、公園費特別会計が設けられました。

明治37年になると、園内に亀山上皇銅像が建立されました。この銅像は、明治19年に起きた長崎事件を受け国防意識を高めるため、福岡警察署長であった湯地丈雄氏らの17年の尽力により建立されたものです。その原型となった木彫像を制作した山崎朝雲は、近代彫刻家の巨匠高村光雲の弟子で、高村光雲、竹内久一と並び、木彫界御三家の一人と言われています。なお、木彫像は現在、筥崎宮の奉安殿に安置されています。また「國難元寇梗概 元寇紀念亀山上皇御銅像建立之概況并紀念祭之経歴」には、「石材ハ福岡城ノ要害ニ築キタルカヅマ門及ヒ赤坂門并ニ黒門其他ノ石垣ヲ崩シテ礎石トセリ 元ト此石材ハ元寇防塁ノ石ニテ黒田公ガ城門ヲ築キタリト聞ク 其城石ガ今又元寇記念碑ノ礎石トナル奇ナル哉(福岡城の数馬門、赤坂門、黒門その他の石垣を崩して礎石とした。元々この石材は元寇防塁の石で、この石材で黒田公が城門を築いたと聞く。その石がまた元寇記念碑の礎石となるのは不思議なことだ。)」と記載されています。亀山上皇銅像は平成13年2月、県文化財として指定されました。

その後、東公園は、周辺の発展により松林が著しく荒廃してしまったため、昭和元年と昭和27年の公園改良計画によって、福岡市東部の休養・運動を主体とした総合公園として整備されました。

昭和52年には、県庁舎の建設のため公園区域を縮小し、野球場やテニスコート等の運動施設を新たに設けた他の公園に移設し全面的に再整備を行いました。現在、福岡市民体育館前の歩道に大灯篭がありますが、これは昭和3年8月に建立されたもので、その場所が東公園の西側の入口であった名残です。(地下鉄工事に際して一旦撤去され、道路拡幅のため1mずつ後退した場所に復元されました。)また現在の舞鶴公園内名島門近くにある藤棚のフジの一部は、このとき、東公園から移植したものです。

現在では、亀山上皇銅像、県花であるウメ、県木であるツツジをシンボルとする、緑豊かな都市のオアシスとして県民の憩いの場となっています。園内の流れの上流部は筑後川の源流を、垂直に落ちる水、岩に砕けるしぶき、下流部の幾何学的石のあしらいは、玄界灘の荒波に打たれながらも微動だにせず屹立する芥屋の大門(糸島市)の柱状の岩石を模しています。

平成14年には中国江蘇省との友好提携10周年を記念して、江蘇省から寄贈された太湖石を使用し「福岡県・江蘇省友好記念庭園」を園内に整備しました。

(写真:東公園にあったロータリー噴水)

東公園にあったロータリー噴水

(写真:東公園にあった武徳殿前の池にかかる橋。手前は藤棚。)

東公園にあった武徳殿前の池

(写真:東公園にあった野球場(手前)と庭球場(奥))

東公園にあった庭球場と野球場

(写真:現在、福岡市民体育館前にある大灯篭。奥に見えるのが現在の議会棟と行政棟。)

市民体育館前の大灯篭

(昭和7年借地人一覧図(西上向き)右端に動植物園用地(青色縦長の区域)が明記されています。)

東公園借地人一覧図

(昭和30年頃の東公園平面図(東上向き))

昭和30年頃の公園図面

(昭和53年 東公園新旧対照図(西上向き))

東公園新旧対照図

昔、東公園にあった主な施設
施設 説明

競馬場

明治29年の福岡市の地図に表示されていますが、詳細は不明です。
皆松館

皆松館(かいしょうかん)建設の経緯は不明ですが、瓦葺2階建て、建坪59坪2合5勺、納屋1棟が付属する建物で、明治32年に公園が県の直営となったとき県が譲り受け、使用料を次のように定めました。

皆松館 二階全部一日 二円三十銭

この皆松館において、明治19年1月10日に洋食会が、明治32年4月3日に九州美術協会総会が開催されました。(明治19年1月12日、明治32年4月5日いずれも福岡日日新聞)

一方亭

一方亭は、明治時代に公園発展のため誘致された高級料亭で、木造二階建瓦葺の凝った建物だったそうです。「博多の一方亭」と呼ばれ、市内はもとより筑豊の炭鉱王もよく利用したそうです。戦時中は西部軍経理部の宿舎として使用され、戦後は占領軍がPX(売店)として使用していましたが、建物の一部を焼失し、そのまま昭和32年に返還され、取り壊されました。跡地に広場等を整備しましたが、後に福岡市民体育館が建設され現在に至っています。

東公園にあった一方亭

一方亭の写真(「想い出のアルバム・博多、あの頃 明治・大正・昭和を綴る」(石橋源一郎・波多江五兵衛編、葦書房有限会社発行)より。写真の説明書きによると「「これだけの銭があれば、一方亭で芸妓を呼んで飲める」というほど最高級の料亭だった」とのことです。)

博多座

博多座は、明治43年、現在の警察棟の東側に建設された劇場で、毎日、歌舞伎や芝居、浪花節等が上演されたそうです。しかし、年々客が減り、昭和8年には閉鎖されました。その後、催場や宿舎に、最後にはアメリカ軍専用のキャバレーとなりましたが、昭和28年に閉鎖され荒れ放題となり、昭和34,5年頃に取り壊されたそうです。

東公園にあった博多座の写真

博多座の写真(「想い出のアルバム・博多、あの頃 明治・大正・昭和を綴る」(石橋源一郎・波多江五兵衛編、葦書房有限会社発行)より。写真の説明書きによると「芝居がハネると小屋の外は真ッ暗。女子供には少々気味が悪い。そのためか客足が伸びずに休座した。」とのことです。)

武徳殿

武徳殿は元々、明治38年に大日本武徳会福岡支部が大名町に建設し、様々な武道の練習に使用されていたものです。その後老朽化のため昭和4年、現在の県庁行政棟西端付近の位置に建設されました。鉄筋コンクリート造、銅葺、外観は天平時代の建築様式により、中洲からも見えたという、武道愛好者自慢の大きな建物だったそうです。戦時中は召集兵の宿舎、戦後はアメリカ軍の兵舎となり、その後、警察宿舎、西部復員局、日本貿易分館等に使用され、最後に県警の体育館となりました。

昭和56年の県庁舎移転のため取り壊され、昭和54年、大濠公園の南側に現在の福岡武道館(県警所管施設)が建設されました。武徳殿の屋根を飾っていた鴟尾(しび)は現在、福岡市博物館に収蔵されています。

動植物園 動植物園は、現在の馬出小学校の所に福岡市が昭和天皇御大典記念事業として整備し、昭和8年8月に開園しました。当時はこの種の施設が少なく、筥崎宮や十日恵比寿神社、宮地嶽神社等の参拝ついでの遠来の見物客が多かったそうです。しかし、昭和12年に日中戦争が始まり、昭和19年には閉園しなければならなくなりました。現在、馬出小学校に正門が残されており、平成25年、福岡市の登録文化財となりました。また、大濠公園の浮見堂は、オットセイ園にあったものを移設したものです。
県立図書館

県立図書館は当初、大正天皇御即位記念事業として現在の天神2丁目に建設され、大正7年に開館しました(木造2階建て延べ492坪)。しかし、昭和20年6月、戦災により焼失したため、昭和25年、現在の県庁行政棟の中央付近の位置に木造赤色の瓦葺平屋建ての図書館が建設されました。利用者は常に多く、時には屋外に長蛇の列をつくる若者の姿をみることもあったそうです。戦後の資材不足のため粗末な造りで面積も141坪しかなく、昭和39年に福岡市中央区の須崎公園の隣に鉄筋コンクリート造の美術館を併設した文化会館を建てて移転しました。その後は警察の音楽隊が使用していたそうですが、昭和52年、県庁舎建設に先立ち取り壊されました。

県立図書館はその後、図書資料の増大等のため文化会館が手狭となり、昭和57年に現在地(福岡市東区箱崎)に新築移転しました。

東公園にあった県立図書館

県立図書館の写真(「教育福岡」1961年5月号(福岡県教育委員会)より。)

ザビエル会館 ザビエル会館(集会所)は、昭和24年にフランシスコザビエルの来訪400年記念事業の一環として観光行事委員会が建設し、県に寄付した二階建ての赤瓦の建物でした。しかし、公園事務所が管理するでもなく、図書館の管理のようでそうでないような状態で、近くの人が集会やバレエの練習等に利用していました。この建物も昭和52年に取り壊されました。

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西公園 (指定管理者:にしてつグループ公園管理団体 代表:株式会社西鉄グリーン土木)

沿革と概要

この地は往古より荒津潟(博多湾)に突き出た丘陵で、万葉集に「神さぶる 荒津の崎に 寄する波 間無くや妹に 恋ひ渡りなむ」と詠まれた景勝の地です。また、天照大神を祀る不許入禁断の霊地で「御山」と称していたとされています。

慶長年間に黒田公が福岡入りした後、荒津山に徳川家康を祀る東照宮等が建立されました(承応元年(1652年))。東照宮等は明治元年(1868年)、廃仏毀釈により廃され、その後暫く荒廃した土地になっていましたが、明治42年に藩祖黒田如水と初代藩主長政を祀る光雲(てるも)神社が遷座されました。(神社の敷地は現在、公園区域外となっています。光雲神社の社殿は昭和20年の福岡大空襲で焼失しており、現在の社殿は昭和41年に再建されたものです。)

前後しますが、県は地域住民の請願を受け、明治維新後、荒廃していたこの地を公園とすることについて大蔵省に上申し、明治14年11月に許可を得、「荒津山公園」となりました。県は、公園管理の事務を担う世話係を地域の有力者から任命し、また地域では、明治23年に世話係を中心に荒津山愛勝会が組織されました。その後、明治32年、公園の経営を県の直営とし、公園費特別会計が設けられました。

井上範吾翁

荒津山公園開園当初は多数の有志者が公園の管理にあたりましたが、徐々に惰気を生じるなか、井上範吾翁は一身を園務に委ねました。当初は荒津山衰退の回復の取組みが中々上手くいかず、翁はこれを挽回しようと、花木の移植を発意し、資金を調達して上申しました。県はこれを受け資金を増加し、明治22年12月、桜425株、桃100株、海棠(かいどう)50株を植栽、これが西公園の花木植栽の始まりとなりました。明治23年には義援金募集のため愛勝会を組織し、また大堀を公園附属地としてその収入を維持の基金に充当する策を立てて官許を得、様々な土木工事を行い、明治30年には舞鶴館を建設しました。開園から県の直営となるまで18年間の公園の経歴は複雑多端なものがありましたが、翁はこれらを整理し、諸般の計画工事の設計立案など忙しく働き、また、私財も投じました。

荒津山公園が県の直営となったとき、翁は公園取締の役職に着き、明治40年、「宿志既に成り」、また古希を迎え退職されましたが、その後も、光雲神社の公園内への移転の計画が持ち上がると、熱心に調整を行い、社殿の位置を確定させました。また敷地が足りないため鍾美亭を隣の花園内に移しましたが、これについても工事一切を監督し、完成させました。

「嗚呼公園の盛運今日あるの基を開きしは、前後二十有七年間一意専心拮据経営せし翁が功労に帰せざる可からず」(荒津山公園成立之記(明治42年建立))

鍾美亭(鐘美亭)

まだ高い建物がなかった頃、西公園からの眺望は絶景とされていました。

明治14年に公園とすることについて許可を得、翌年に3名の公園掛が任命されると、「有志者奮って株金を募集し、集め得たるもの千四百有余円、之を以て荒蕪の土地を開き、亭観を営築し、名付けて鍾美亭と云う。」(詳説福岡県議会史明治編下巻)この名称は、建物からの見晴らしが屏風絵のように素晴らしく、「衆美を一亭に鍾(あつ)む」という意味だったそうです。明治15年7月落成、平屋瓦葺、建坪は49坪15合の建物でした。

明治32年に公園が県の直営になったとき県が譲り受け(明治40年、もとの寄附者に還付)、使用料を次のとおり定めました。

 第一号 一日 七十銭

 第二号ヨリ第四号迄 一日 各五十銭

 全部ハ 二円

西南学院大学の資料によりますと、明治40年10月、この鍾美亭で福岡バプテスト神学校の開校式が行われました。

(福岡バプテスト神学校開校式のときの写真。西南学院大学提供)

明治40年福岡バプテスト神学校開校式写真

「五足の靴」と西公園

明治40年、与謝野鉄幹、北原白秋、平野万里、吉井勇、木下杢太郎の5人が九州を旅し、「五足の靴・五人づれ」を発表しました。一行が最初に訪れた福岡では、福岡県文学会の人々が出迎え、西公園の料亭「吉原」で歓迎会が行われたそうです。料亭のそばにあった池を背景に記念写真をとり、散会後、5人は伊崎浦で一艘の船を仕立てて博多湾を走らせ、中洲の川丈旅館に宿泊したそうです。

(五足の靴一行歓迎会記念写真。公益財団法人北原白秋生家記念財団所蔵。)

明治40年 五足の靴一行歓迎記念写真

西公園吉原の詳細は不明ですが、昭和十年代の資料に、「公園ノ東側園丁舎(現在の詰所付近にあった。昭和52年廃止。)ノ上方ニ所在スルモノニシテ初メ公園ノ発展策トシ又公園遊覧者ノ使益ヲ与フル目的ノ為メ(中略)一料亭敷地トシテ貸付数十年間営業ヲ継続シ西公園吉原トシテ一般ニ有名ノモノニアリタルモ時代ノ変遷ニ伴ヒ営業不振ニ陥リ遂ニ休止ノ已ムナキニ至リ」という記述があります。

舞鶴館(ぶかくかん(ぶがくかん))

西公園内には舞鶴館という集会所があります。この施設は2代目の建物で、初代「舞鶴館」は明治30年に荒津山愛勝会が建設し、貴賓の接待所や地元の集まり等に利用されました。明治32年、公園が県の直営となったときに県に寄附され、県は使用料を次のとおり定めました。

 舞鶴館 全部一日 三円

昭和54年、老朽化と台風による破損のため取り壊し、昭和57年、県は西公園開創百年を記念して舞鶴館を再建しました。

(写真:取り壊し前の舞鶴館)

取り壊し前の舞鶴館

(昭和17年の公園平面図。公園の北側はまだ海に面していました。)

昭和17年 西公園平面図

西公園は園内に様々な記念碑が置かれており、福岡の歴史を伝える地となっています。また昭和33年には、公園の緑を保護する風致公園に指定されました。

当公園は博多湾の展望と自然を生かした都市部における県民の憩いの場となっていますが、とりわけ、春には約1,300本の桜が咲き、多くの花見客で賑わいます。なお平成2年には、「全国さくら100選の地」に選ばれました。

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大濠公園 (指定管理者:にしてつグループ公園管理団体 代表:株式会社西鉄グリーン土木)

沿革と概要

この地はかつて、博多湾の入江の草ヶ江と呼ばれる沼地でしたが、黒田長政が慶長年間に福岡城を築城した際に入江の北側を埋め立て、城濠としました。

明治33年には西公園の付属地とされましたが、原状のまま維持されました。大正時代には、住宅地に近接する不衛生な沼地としてその取扱いが問題となっていましたが、昭和2年に開催された東亜勧業博覧会を機に造園工事を行い、昭和4年に大濠公園として開園しました。当公園の設計は、日比谷公園の設計や明治神宮の森の造成に携わった本多静六博士と弟子の永見健一博士によるものです。

当公園の整備費45万4千円余(大正14年度~昭和4年度)は、福岡市からの寄附金5万円の他は全額、濠を埋めて出来上がった土地を売却することにより償還しました。

大濠公園のはじまり

大正の中頃、東松原公園(今の東公園)では、周辺の開発による環境悪化や松毛虫の異常発生により松の大方が枯れ、景観が損なわれつつありました。そこで大正13年10月、東京帝国大学教授、林学博士の本多静六氏と同大学農学講師の永見健一氏を招き診断していただきました。両氏は1週間かけて調査をしましたが、結果は「もう助からない」ということでした。

この時、両氏を西公園に案内しましたが、園内を一巡して帰り際、公園の高台に足を止め眼下を見下ろしていた両先生は、彼方に広がる葦の沼地に暫し目をやり、やや考え込んだ後、案内役の県土木課長に、「あの沼地こそ公園として整備すべきだ」とおっしゃられたそうです。その後再び福岡を訪れた両氏は、1カ月近く福岡に宿して東公園と西公園の改良計画と大濠公園の整備計画を練り上げたとのことです。

(写真:福岡市東西両公園ノ大改良並ニ大堀公園新設設計ノ大方針)

福岡市東西両公園ノ大改良並ニ大堀公園新設設計ノ大方針

○大濠公園は中国の西湖を模して造られた?

西湖とは、中国浙江省杭州市にある大きな湖で、湖を分ける堤や人工の島がある有名な観光地であるためか、大濠公園は西湖を模したと言われることがあります。しかし、この説について根拠となる資料は見当たりません。「福岡市東西両公園ノ大改良並ニ大堀公園新設設計ノ大方針」や、大濠公園の設計について語り継がれている次のような逸話、専門誌への福岡県の寄稿記事中、設計に係る説明文にそのような話はないことから、「西湖を模した」ものではないと思われます。

「永見先生が下図を書いては本多先生の所に持っていく。下図は惜しげもなく、物をも言わない本多先生の手によって破り捨てられる。破られては書き、書いては破られること十数回、たまりかねた永見先生、憤怒を癒さんと屋台に駆け込みおでんを肴に6,7杯。鼻唄まじりの千鳥足。宿に着いて歯痒さ余りの乱暴書き、なんとその図が本多先生に「よくできた」とお褒めの言葉。採用の運びとなったとか。」(県公園部局で語り継がれている逸話)

「設計については、東京大学教授本多静六同講師永見健一両博士が現地を1週間以上も踏査され、設計されたものでその中心となる水面の形状については特に苦労されたと聞いている。尚細部実施設計については県土木課に於いて、各地の公園を参考とし両博士の指導によりなされたものである。一例をあげれば松島は上野の忍の池を、入口の杉土手附近は高松の栗林公園と金澤の兼六公園をモデルにしたと云われている。」(「新都市」(昭和34年4月1日財団法人都市計画協会 発行)大濠公園のアメリカ軍接収解除後行われた再整備の竣工を機に、福岡県都市計画課が大濠公園の30年の歩みについて寄稿した記事より)

○公園図面

(大堀公園計画図。本多、永見氏による提案を受け、県において実際の整備計画を検討している過程のものと思われます。本多、永見氏による図面にはないプールの計画が貼り付けられています。実際に整備された簡易野球場はまだ描かれていません。)

大堀公園計画図

(昭和25年の公園平面図。国有地部分が着色されています。簡易野球場の北側には庭球場がありました。また、公園整備の際の埋め立てて造成した売却地が表示されています。)

昭和15年 大濠公園平面図

(戦後、占領軍に接収された区域(「占」と表示)等を示した平面図。)

占領軍接収地を示した図面

○大濠公園の古写真

(写真:「柳島」(公園池の中の島のひとつ)との書き込みがあります。土を運ぶトロッコらしきものが写っており、公園造成時の写真ではないかと思われます。)

公園造成時の写真か?

(写真:大濠公園造成の様子と思われるもの その2)

大濠公園造成写真その2

(写真:大濠公園造成時の様子と思われるもの その3)

大濠公園造成時の写真と思われるもの

(写真:観月橋)

観月橋

(写真:茶村橋。この橋の名称は当時の柴田知事の俳号からつけられたものです。)

茶村橋

(写真:舞鶴橋)

舞鶴橋

(写真:皐月橋。皐月橋だけ、平成元年に架け替えられています。)

皐月橋

大濠公園の貸ボートとボートハウス

大濠公園池の貸ボートは、実は大濠公園開園前の昭和3年に始まったものです。当初は指名請負による個人の方の営業でしたが、昭和8年に現在の管理事務所付近にあったボートハウスを買収し、昭和9年に県の直営としました。

戦後、荒廃した公園の復旧が考えられ始められたとき、財源が不足するなか、まず収益が大きい貸ボートの再開をしようと、昭和21年頃、疎開家屋の古材を集め、柱と屋根だけのボートハウスが現在地に建設されました。

昭和36年、県はボートハウスの建替えを計画しましたが、財政状況が厳しかったため、博多土産物商業協同組合の組合員が結成した有限会社から建設費の寄附を受けてボートハウスを建設し、昭和37年、その有限会社に貸ボート以外の経営(土産品の展示販売、軽飲食店、売店)を許可しました。

昭和45年、県は、夜間営業もしていた貸ボートの職員確保の難しさ等から、ボートハウスと一体的に運営した方が都合がよいと判断し、貸ボートの経営を有限会社に移しました。

その後、ボートハウスは増改築を重ねましたが、老朽化のため平成25年に取り壊しました(貸ボートは営業を継続)。跡地に新たなボートハウスを建設、運営する事業者を公募により決定し、平成27年に新たなボートハウスがオープンしました。

(写真:旧ボートハウス)

旧ボートハウス

当公園は約23haの池を有する水景公園で、冬場には多くの渡り鳥を観察することができます。池には4つの橋で結ばれた中の島(柳島、松島、菖蒲(あやめ)島)や浮見堂、鴨島のほか、周囲に約2kmの周回園路、野鳥の森、児童遊園、ボートハウス等を配しています。

浮見堂は、昭和8年に東公園(現在の馬出小学校の場所)に開園した旧福岡市動植物園にあったもので、オットセイ等の海獣を観察するための施設でした。旧福岡市動植物園は太平洋戦争末期の昭和19年、戦時下の厳しい状況から閉園となり、浮見堂は取り壊される運命にありましたが、当時の県の公園係長らが福岡市の了解を得て、大濠公園に移設することになったそうです。設置場所がなかなか決まりませんでしたが、昭和24年、現在地に建てられたとのことです。その数年後、永見教授が来られたとき、現地を案内し、意見を求めたところ、「当初の設計にそうしたものを入れたいと思っていた」とおっしゃられたそうです。

昭和41、44、49年の3回に分け、大濠公園への自動車の乗り入れの規制が段階的に行われました。元々大濠公園の周回園路は自動車が通行し、市内定期観光バスも乗り入れていたようです。しかし、自動車が増加するにつれ、心も休まらず公園利用もままならないようになったので、自動車を締め出すことにしました。特に最初の規制のときは、各方面から「交通体系が崩れる、交通が麻痺する、不便になる」と大反対にあい、長い間論戦が続いたとのことです。

昭和48年、公園制度100周年を記念して、公園池に大噴水が建造されました。当時、池では時々苦潮が発生し、魚の大量死により、ひどい悪臭を生じることがあったため、噴水により水を空気に曝し、また落下する飛沫が水面を叩くことにより酸素を補給させようとするものでもありました。揚程最大50mで、公共施設としては日本一の施設でしたが、現在はありません。

昭和54年には、園内にあった野球場敷地に福岡市美術館が開館しました。この建物の設計は、前川國男氏によるものです。

(写真:噴水と福岡市美術館)

大噴水

(写真:美術館建設のため廃止する直前の野球場。当初、ここは野球場ではなく舟溜まりを整備する計画でした。)

廃止前の野球場

昭和59年には、昭和43年までプールがあった場所に、開園50周年を記念して、足立美術館や二条城、ボストン美術館等の日本庭園を作庭した中根金作氏の設計による日本庭園を開園しました。また庭園内の茶室及び茶会館は、現代日本における茶室・数寄屋建築研究の第一人者で、フランス国立ギメ美術館茶室やスウェーデン国立民族博物館茶室等を手掛けた中村昌生氏の設計によるものです。

この日本庭園は、平成12年7月、九州・沖縄サミット福岡蔵相会合の夕食会会場として使用されました。

(写真:取り壊し前のプール。当初は8段階コンクリート造り、2千人収容の観覧席がありました。)

取り壊し前のプール

昭和61年6月には、国立能楽堂等を手掛けた大江宏氏の設計による大濠公園能楽堂をオープンしました(公園管理事務所も大江宏事務所の設計です。)。このように、大濠公園の園内には文化施設が充実しています。

一方、公園池は昭和40年頃から水質の悪化が顕在化してきましたが、水質浄化のためには池の底の汚泥を除去するしかないと言われ、膨大な経費の問題と、取り除いた汚泥をどうするかという問題で暗礁に乗り上げていました。その後、汚泥を池の底に埋めるという発想の転換をし、昭和62年から平成元年3月まで池底泥改善工事を行い、平成3年には池水ろ過施設が完成しました。公園池の北側外周を流れる水路は、池の北側で取水してろ過した水を、東側と南側から池に戻すためのものです。

平成19年2月、池の部分が文化財保護法に基づく登録記念物とされ、さらに平成26年3月には観月橋や浮見堂等が福岡市登録有形文化財とされました。

(写真:池底改修工事中の大濠公園)

池底改修工事牛の大濠公園

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名島運動公園 (指定管理者:宗像緑地建設株式会社)

沿革と概要

この地には、大正9年、名島火力発電所が設けられました。その発電規模は当時、東洋一と評されたそうです。

昭和4年には、名島火力発電所の近くに名島水上飛行場が設置され、国際航路がひらかれました。昭和6年には、チャールズ・リンドバーグ夫妻が世界一周飛行の際に名島水上飛行場に飛来しました。

戦後、エネルギー政策の転換が進み、また他に高出力の発電所が建設されたことから、名島火力発電所は昭和35年に廃止されました。発電所の跡地は九州電力のグラウンドとして利用されていました。

その後、県庁舎の移転による東公園の縮小に伴う代替公園の一つとして、この地に名島運動公園を整備し、昭和57年7月に開園しました。

公園内には、軟式野球場、庭球場、こども野球場、自由広場等の運動施設を備えており、県民の身近な運動施設として活用されています。

(公園整備前の図面)

名島運動公園整備前の九電競技場

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天神中央公園 (指定管理者:株式会社福岡植木)

沿革と概要

この地はかつて、福岡城の城下町で天神町・因幡町と呼ばれていました。明治9年に福岡城内に置かれていた県庁舎がこの地に移転・完成し、その後、明治43年に開催された第13回九州沖縄8県連合共進会の会場とするため、県庁の南側にあった肥前堀を埋め立てて、一帯の整備が行われました。この共進会の展示本館である共進館を仮庁舎として県庁舎が建築され、大正4年に新たな庁舎が完成しました。その後県庁舎は別館を増築していきましたが、手狭となり、また老朽化していたため、東公園の地に移転新築することになりました。

このため東公園を縮小することになり、代替公園の一つとして、旧県庁別館や知事公舎、教育庁舎の跡地に天神中央公園が整備されました。旧県庁舎の正面玄関の門柱などは、天神中央公園や春日公園などでオブジェや腰掛等として再利用されています。また、ステンドグラスはアクロス福岡シンフォニーホールのロビーで再利用されています。

(写真:旧福岡県庁)

旧県庁舎

(写真:アクロス福岡シンフォニーホールのロビーで再利用されているステンドグラス。旧県庁舎正面主階段天井に取り付けられていたものです。)

アクロス福岡で再利用されているステンドグラス

(公園整備前の図面)

公園整備前の図面

(写真:福岡城外堀の護岸の遺構。モルタルを詰めて積み直したものと思われます。)

福岡城外堀護岸

(写真:アクロス福岡整備前の天神中央公園)

アクロス福岡整備前の天神中央公園

公園の整備に際しては、天神地区の慢性的な駐車場不足に対応するため、地下に公共駐車場が設けられました。また、薬院新川沿いには、福岡城外堀の護岸を保存しています。

昭和63年5月から国指定重要文化財である旧福岡県公会堂貴賓館とその周辺を、平成元年3月から芝生広場や噴水を、平成2年7月から福博であい橋を供用しています。

福博であい橋は、中央区天神と博多区上川端を結ぶ福博プロムナード(薬院新川と那珂川に橋を架け、天神コアビルから中洲を通って博多区冷泉公園まで歩道で結ぶもの)の中核的な施設として整備したものです。デザインは、福岡の民謡「黒田節」に因み、橋本体は、中洲側より扇、盃、盃を、東屋は盃と槍を表現しています。

平成20年度からは、芝生広場周辺を「ふくおか交流おまつり広場」と位置付け、公的な催しの会場としても活用しています。

平成23年3月には、福博であい橋付近に防災船着場を整備し、平常時は、那珂川水上観光船の発着場として活用しています。

「福岡藩刑場跡」碑について

噴水の裏手に「福岡藩刑場跡」という石碑があります。この石碑は、地下駐車場建設に伴い、旧知事公舎の敷地内(現在の地下駐車場3番出入口付近と思われます)にあった江戸時代の僧侶、空誉上人を祭る祠を撤去しなければならなくなったため、この地に祠があったことを示すものとして、昭和59年に設置されたものです。

旧知事公舎敷地内にあった祠について

福岡市中央区大手門にある浄念寺の「空誉上人縁起」によりますと、旧知事公舎の敷地は、旧県庁裏手の葦沼であったものを明治43年の共進会会場として埋め立てたもので、その葦沼は、慶長16年(1611年)に空誉上人が黒田家に処刑された場所であるという口碑(言い伝え)があったそうです。昭和2年、知事公舎で霊夢を見る人(昔の新聞のコラム等によると、当時の大塚知事)があり、この言い伝えから、空誉上人を祭る祠を建立し祭典を行ったとされています。

なお、「空誉上人縁起」において、この言い伝えとは別に、空誉上人が処刑されたのは「洲崎の浜」とされていること、「葦沼」は慶長年間は福岡城の肥前掘であったと思われること、藩の「仕置き場」は文化年間の地図によると海浜部にあったことから、実際にこの辺りで処刑が行われたのかは定かではありません。

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中央公園 (指定管理者:岡崎建工株式会社)

沿革と概要

中央公園は福岡県が管理する区域と北九州市が管理する区域で構成される都市公園で、県は金比羅(こんぴら)池を中心とする区域を管理しています。

この地は元々、山林原野が主で、その中に農地や住宅が散在しているような場所でした。金比羅池は大正7年に地元関係者により灌漑用ため池として造られたもので、八王子池と呼ばれていたそうです。第二次世界大戦中の昭和17年に重工業地帯の爆撃に備え、旧小倉、八幡及び戸畑都市計画緑地として決定した区域の内、事業認可された区域が中央公園の始まりです。当時は「中央緑地」と呼ばれていました。

事業認可の3年後には終戦を迎え、工事の着手が困難な状況が続きましたが、昭和24年から始まった失業対策事業で公園の工事が20年近く行われました。

昭和41年、建設省は明治百年記念事業として公園整備を全国で10カ所行うこととし、九州では唯一、中央緑地が選定されました。これを機に名称を「中央公園」に改め、約20年かけて整備が行われました。

昭和49年1月、園内に北九州市立総合体育館がオープンしました。当時の市政だよりでは「ジャンボ体育館オープン」「西日本一の市立総合体育館が開館」と報じられました。

その後、平成4年6月、県及び北九州市による中央公園整備基本計画を発表し、県、市それぞれによる整備が平成15年頃まで行われました。平成12年には、閉園が決定した西日本鉄道の到津遊園跡地を市営到津の森公園として整備・運営するため、都市計画公園区域に取り込みました。

平成18年には、金比羅池と管理棟が、第4回北九州市都市景観賞を受賞しました。

金比羅池の国境石

かつて北九州市は、ほぼ中央で豊前国と筑前国に分かれていました。この国境に多く残っている国境石の一つが金比羅池にあり、「従是西筑前国(これよりにし ちくぜんのくに)」「遠賀郡中原村抱」「文化十四年(1817年)丁丑三月 再建之」と表示されています。

現在、池の中にありますが、昭和44年に池の堤防嵩上げに伴い土台が設けられたもので、位置は変わっていないそうです。

(写真:金比羅池の国境石)

金比羅池の国境石

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春日公園 (指定管理者:木下緑化建設株式会社)

沿革と概要

この地はかつて、草競馬などが開催されるような場所でしたが、昭和16年、陸軍小倉造兵工廠春日原分所が建設されました。戦後、昭和20年から昭和47年まで米軍板付基地に関連する通信隊の基地及び宿舎の用地として使用され、その後、荒廃した土地となっていました。この地は長年議論された旧福岡県庁の移転先の候補地の一つでしたが、最終的に県庁舎は東公園の地に移転することとなりました。

昭和52年に昭和天皇御在位五十年記念公園として指定され、都市における緑のオープンスペースの創出により、大災害に対する都市の安全性の確保と都市環境の改善を図ることを目的とした総合公園として整備し、昭和56年5月から庭球場と野球場を、昭和59年10月から公園全体を供用しています。

当公園は本格的な運動施設を備え、球技場は、平成2年のとびうめ国体及び平成7年のユニバーシアード福岡大会でサッカー競技会場として利用されました。野球場及び庭球場も様々な大会で利用されています。園内には周回園路が整備され、ジョギング等で利用されています。

平成29年5月、旧管理棟を、売店やキッズルーム、ロッカールームを備えた「パークステーション」に改装しました。

芝生広場及び調整池周辺には約700本の桜が植栽され、開花時期には多くの花見客で賑わいます。また当公園は、都市部において貴重な、野鳥や植物等の観察の場にもなっています。

(写真:開園した頃の春日公園。球技場や噴水が未整備です。)

開園間もない春日公園

(写真:平成4年頃の春日公園。野球場はまだスタンドがありません。)

平成4年頃の春日公園

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筑豊緑地 (指定管理者:みどりの環・筑豊 代表:株式会社福岡カホスイミングスクール)

沿革と概要

筑豊緑地は、福岡県のほぼ中央、遠賀川流域の盆地的な地域に位置しています。この地域はかつて、石炭やセメントの重要な産地でしたが、当時、鉱工業従業員の厚生休養施設は、2,3の鉱業所所有の運動広場や飯塚市営野球場があるに過ぎなかったため、昭和25年に、この地方全域を対象とした総合レクレーションセンター計画について調査が行われ、この地が適地として選定されました。

(昭和27年「筑豊炭田地方のレクレェーション問題と筑豊緑地計画概要」の筑豊緑地設計予想図)

昭和27年 筑豊緑地設計予想図

昭和28年1月に都市計画を決定、整備に着手し、昭和29年11月28日には、野球場を中心とした一期工事の完了を記念して公園開きが行われました。その後も整備を進め、順次供用開始していきました。昭和30年代のエネルギー政策転換後、産炭地域開発就労事業等により野球場、陸上競技場、サイクリング園路、児童広場等が整備され、これらの事業は昭和54年度まで行われました。

その後、昭和59~60年度に当公園の基本計画を策定し、平成元年、建設省から総合的な健康、運動施設整備事業の拠点公園(ウェルネスパーク)の指定を受け、平成3年度から本格的な公園整備に着手し、平成8年4月にテニスコート、サーキットトレーニングコース、大芝生広場、野外ステージ、トリム園、ジョギングコース等を、平成12年4月に野球場、多目的広場、エントランス広場等を、平成16年4月に屋内温水プールを、平成17年7月に国内公認屋外50mプールを供用開始しました。

当公園のテニスコートは、隣接する筑豊ハイツのテニスコートとともに飯塚国際車いすテニス大会会場として使用されており、平成25年にはハードコート5面を国際規格に改修するとともに観客席付きの国際規格ハードコート2面を新設しました。

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筑後広域公園 (指定管理者:筑後広域公園振興事業団 代表:株式会社AJ・コーポレーション)

沿革と概要

この地は元々、奥八女を水源とする清流矢部川を中心とした緑豊かな土地で、公園敷の多くは農用地でした。平成元年から、県営都市公園が無かった筑後地域における公園整備の検討が進められ、最終的にこの地が候補地として選定されました。平成7年に都市計画決定をし、公園整備事業に着手しました。

(写真:公園整備着手前の航空写真)

公園整備前の航空写真

当公園は、「豊かさを体感できる公園」をテーマに、豊かな自然環境を活かしながら、スポーツや文化活動など多様なレクリエーション活動を楽しむことができる地域住民の憩い・交流・健康づくりの場として整備を進め、平成17年7月に庭球場や多目的運動場などを供用開始しました。

その後、平成18年5月に体育館、平成19年10月に中の島、平成20年11月に宿泊施設、平成21年4月にせせらぎ水路、同年12月に宿泊施設西側駐車場、平成23年3月に新幹線駅前の区域、平成23年10月に大芝生広場の区域、平成25年4月に九州芸文館(設計協力:隈研吾氏)、平成26年4月に堆肥化施設、平成28年7月にドッグラン、同年12月にプール、平成29年4月にプール東側駐車場、平成30年4月に体験エリア、令和2年10月に球技場、スケートボード場を供用開始しました。

当公園は、平成23年3月に開業した九州新幹線の筑後船小屋駅をとり囲む形で配置され、また自動車では、九州自動車道八女IC・みやま柳川ICいずれからも約10分と、交通の便に恵まれています。また、平成28年3月には近くにホークスベースボールパーク筑後がオープンし、にぎわいの面で相乗効果が期待されています。

福岡県の森林浴百選にも選定されている中の島のクスノキ林は、元禄8年(1695年)、柳川藩の治水事業が行われた際、護岸のため植林されたもので、昭和49年に国の天然記念物として指定されています。

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