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「令和」のふるさと福岡県

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年4月25日更新

1 新元号「令和(れいわ)」の出典 『万葉集』とは?

西本願寺本万葉集 巻五 複製

(写真)西本願寺本万葉集 巻五 複製

 平成31年(2019)4月1日、新元号が「令和」に決定されました。そして、その「令和」の出典が『万葉集』であることも発表されました。元号は、これまで漢籍(中国の書籍)を出典としてきましたが、今回はじめて国書(和書、日本の書籍)が採用されたことになります。
 「令和」の出典となった『万葉集』は、日本最古の歌集で、国書の代表格と言ってよい存在です。『万葉集』が編纂(へんさん)されたのは奈良時代後半で、その編者は大伴家持(おおとものやかもち)とされています。そこには、天皇・貴族から一般民衆まで幅広い人びとが詠んだ約4500首の和歌が収載されています。その中には、筑紫(つくし)こと九州ゆかりの歌が300首以上収められています。

2 「令和」を生んだ「梅花の宴」とは?

梅花の宴  山村延あき作 (公財)古都大宰府保存協会所蔵

(写真)梅花の宴  山村延あき作 (公財)古都大宰府保存協会所蔵

 天平2年(730)正月13日、大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)であった大伴旅人の邸宅において、大宰府や西海道(さいかいどう)(九州)諸国の役人が集い、「梅花の宴(ばいかのうたげ)」が催されました。旧暦の正月13日は、現在の暦でいうと2月8日。ちょうど梅の咲き誇る時節にあたります。
 この日、筑紫の万葉歌人たちは、中国渡来の高貴な花とされた白梅を愛(め)でながら、梅花を主題とした作歌を繰り広げています。
 「梅花の宴」の主催者である大伴旅人は、わが庭で咲き散る梅の花を雪に見立てて次のような和歌を詠んでいます。

 わが園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも 
  (わが園に梅の花が散る。天から雪が流れて来るのだろうか。)

 都における政争とは一線を画し、風雅の世界に居(い)ようとする旅人の思いが感じられます。

 ※山村延あきさんの「あき」は火へんに華です。

3 「令和」の元となった序文の作者は?

大宰府政庁跡(都府楼跡)

(写真)大宰府政庁跡(都府楼跡)

 新元号「令和」は、『万葉集』巻五の「梅花歌三十二首」の序文のなかから、「令月(れいげつ)」の「令」と「風和」の「和」の二文字を採り組み合わせて創られました。これは、元号には好字(こうじ)(良い意味の文字)を使うという伝統に基づくものです。「令」には「令嬢(れいじょう)」や「令名(れいめい)」(名声)のように「良い」や「優れた」、「和」には「温和」や「平和」のように「やわらぐ」や「まとまる」という意味があります。
 序文の作者をめぐっては、大宰帥(だざいのそち)の大伴旅人(おおとものたびと)や筑前守(ちくぜんのかみ)の山上億良(やまのうえのおくら)など諸説がありますが、現在もっとも有力なのは旅人説です。大伴旅人は、『万葉集』の編者とされる家持の父親です。
 旅人は、白村江(はくそんこう)の敗戦まもない665年に武門の名族であり、代々九州とゆかりの深い大伴氏の嫡男として生を受けました。歌人としては、神亀4年(727)頃に大宰帥として九州へ赴任することで、筑前守だった山上憶良と出会い、万葉筑紫歌壇を花開かせました。
 天平2年(730)には大納言(だいなごん)として念願の帰京を果たしますが、翌年に67歳で亡くなっています。 

4 「梅花の宴」の行われた大伴旅人邸はどこ?

大伴旅人邸宅想定地を望む

(写真)大伴旅人邸宅想定地を望む

 「梅花の宴」は、大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人の邸宅で催されました。その宴で詠まれた「梅花歌三十二首」のなかに次の一首があります。

 梅の花 散り紛(まが)ひたる 岡傍(おかび)には うぐひす鳴くも 春かたまけて  榎氏鉢麻呂(かじのはちまろ)
 (梅の花の散り乱れている岡の辺りには、鶯が鳴くよ。春を待ち受けて。)

 この歌に「岡傍」とみえることや旅人の歌にも「わが岡」と詠まれていることから、旅人邸が丘に面した場所もしくは丘の上にあったと考えられています。これを手掛かりとして今日までに以下の3つの説が唱えられてきました。
 第1説は坂本八幡神社(坂本八幡宮)説で、第2説は月山東(つきやまひがし)地区官衙(かんが)跡説、第3説は菅原道真(すがわらのみちざね)の館(やかた)跡とされる榎社(えのきしゃ)周辺説があります。

5 大伴旅人が赴任した「大宰府」とは?

大宰府政庁復元模型 九州国立博物館所蔵

(写真)大宰府政庁復元模型 九州国立博物館所蔵

 現在の福岡県太宰府市には、かつて古代最大の地方役所である「大宰府」が置かれ、その役所の前面には都に次いで大きな古代都市「大宰府」(大宰府条坊)が展開していました。「だざいふ」の表記には、「大宰府」と「太宰府」の二つがあります。古代の役所や都市を指す場合は「大宰府」、現在の地名の場合は「太宰府市」や「太宰府天満宮」のように「太宰府」を用います。
 役所としての「大宰府」は、飛鳥・奈良・平安時代を通じてわが国における外交の窓口や対外防衛の最前線として大きな役割を担うとともに、九州全域を治めるかなめの役所として「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも呼ばれました。また、古代都市「大宰府」は国の内外を問わず、多くの人や物が行き交い、大いに賑(にぎ)わいました。
 大伴旅人が任じられた大宰帥は、大宰府の長官で、国政を主導する左右大臣・大納言(だいなごん)に次ぐ地位であり、地方の役人としては最高位でした。

6 大伴旅人ゆかりの史跡「水城(みずき)跡」「大野城跡」

水城跡と大野城跡(四王寺山)

(写真)水城跡と大野城跡(四王寺山)

 「令和」のふるさとともいえる福岡県には、大伴旅人とゆかりの深い史跡が存在します。その代表的なものが大宰府の役所跡である特別史跡「大宰府跡」や防衛施設である特別史跡「水城(みずき)跡」「大野城跡」です。

 大野山 霧立ちわたる 我が嘆(なげ)く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ちわたる 山上憶良
 (大野山に霧が立ちこめる。私が嘆くため息の風により霧が立ちこめる。)

 憶良の「大野山」の歌は、大宰府赴任後まもなく最愛の妻を亡くした旅人の深い悲しみを思い、彼に代わり詠んだものです。「大野山」とは、万葉集で「大城山(おおぎやま)」とも詠われ、旅人が生まれた665年に大野城が築かれた、現在の四王寺山(しおうじやま)のことです。四王寺山では今も大野城の石垣や土塁、倉庫群の礎石(そせき)をみることができます。

 ますらをと 思へる我や 水茎(みずくき)の 水城の上に 涙拭(のぐ)はむ 大伴旅人
 (丈夫(ますらお)と思う私が、水城の上に袖で涙を拭(ふ)くことだろうか。)

 この「水城」の歌は、帰京する旅人が、愛(いと)しい娘子(おとめ)・児島(こじま)の見送りに応えて、彼女との別れのつらさを詠んだものです。白村江(はくそんこう)の敗戦後に防衛施設として築かれた水城が、当時の人々にとって、大宰府とその外とを分かつ境界として意識され、送別の場とされたことを示しています。

7 今もアジアとの交流拠点「福岡県」

太宰府から博多湾を望む

(写真)太宰府から博多湾を望む

 「梅花の宴」は、中国大陸との窓口である大宰府において、中国舶来の梅の花を愛(め)でながら、中国の「書聖」王羲之(おうぎし)による「蘭亭(らんてい)の詩会」にならって行われた宴です。そして、宴の趣向は中国にならい漢文の序文を据えながらも、漢詩ではなくやまと言葉を使い和歌を詠むところに中国文化と日本文化の交流がみられます。
 福岡県の歴史や文化を考えるとき、大伴旅人や山上憶良が生きた奈良時代に限らず、中国大陸や朝鮮半島との交流を抜きにして語ることはできません。弥生時代にはいち早く稲作が朝鮮半島からもたらされ、古墳時代には中国大陸や朝鮮半島から多くの渡来人(とらいじん)が先進技術を伝えました。古代には唐(とう)・新羅(しらぎ)との外交や交易の拠点として大きな役割を担い、中世には中国商人や留学僧などの活躍により博多を通じて唐物(からもの)や禅宗などがもたらされました。福岡県は海外との交流の拠点であり続けたのです。
 そして、今も福岡県は、中国や韓国をはじめとしたアジア諸地域のひとびとを多く受け入れつつ、産業や文化など幅広い分野における交流と連携を進め、「アジアを向いた一大拠点」として発展を遂げています。

8 大宰府研究の拠点 九州歴史資料館

九州歴史資料館

(写真)九州歴史資料館

 九州歴史資料館は、昭和47年(1972)、特別史跡「大宰府跡」「水城(みずき)跡」「大野城跡」や史跡「大宰府学校院跡」「観世音寺境内および子院(しいん)」などから構成される「大宰府史跡」の調査・研究を行っています。
 大宰府史跡の発掘調査がはじまったのは、今から50年前の昭和43年(1968)。その成果の蓄積により大宰府の役所や寺院、防衛施設の姿が明らかとなり、福岡県および日本の歴史における大宰府の重要性が広く知られるようになりました。「大宰府史跡」が、奈良の平城京(へいじょうきょう)跡や東北の多賀城(だがじょう)跡とならび、日本三大史跡に数えられるゆえんです。

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